2022、日本での自転車旅行 (その2)安倍奥を走る
- 鉄太 渡辺
- Jul 9, 2022
- 16 min read
2022/07/09

静岡で、私の従姉妹たちの反応
6月上旬某日。さて、いよいよ私、T村、T屋先生の三名による、安倍川および大井川沿い自転車旅行の時がきた。
私はその三日前から静岡入りし、父方の親戚と先祖代々の墓の管理について協議する用事があった。昨今の日本では墓というのは「面倒なもの」とほぼ同義になってきている。誰しも、先祖への礼は尽くしたい気持ちはあるのだろうが、親類がみんなで仲良く墓を守っていくという構図は悲しいかな失われつつある。我が家の場合もさまざまな問題があり、先祖代々の墓守が難しくなっている。
それでも、久しぶりに従兄弟姉妹たちと集まって、食事をしながら思い出話をするのは楽しかった。その席で、私はこの後、奥安倍および大井川沿いを自転車で走る計画があることを話した。すると、みんな口を揃えてそれが大変無謀であると言った。
従姉妹の旦那の元消防士はこう言った。
「なにぃ?安倍川沿いに梅が島温泉まで行くって?そんなの無理じゃん。あの辺りはすごく険しくて狭い道ずら。俺っちの実家がその途中にあるだけど、途中の富士の里っていうドライブインのあたりから、こーんな胸付き八丁の坂になるっけじゃんよ。無理、無理、無理、自転車じゃあ無理!」
材木屋に嫁いでいる従姉妹はこう言った。
「そうよぅ、それにそんな82歳のおじいちゃん先生をそんな人里離れた場所に連れていくなんて、かわいそうじゃん。具合が悪くなったらどうするぅ?すごい山の中なんだから、救急車なんてこないわよ!いざとなったら私、車で助けにいくから、電話してね。本当に、すぐ電話するのよ。車で迎えに行くから!」
こういう申し出はとてもありがたい。
その夫の材木会社の会長はちょっと羨ましそうだった。
「うふふふ、自転車で行くなんて、面白そうじゃんか。おれも自転車買ってあちこち走ろうかなあ。でも坂はきついから、電動アシストだな。電動アシストで平らなところ走るんだったら、楽で良いじゃんなぁ。奥安倍なんかはとても無理だな。」
こう言う人が多いから、電動アシストの自転車が飛ぶように売れるのだろう。

静岡駅を出発する
無謀でも何でも、私とT村とT屋先生は、予定通り、静岡駅に朝8時半に集合したのだった。従姉妹たちに奥安倍までの道がかなりの難路だと忠告されたことは、T村とT屋先生には大袈裟には言わないでおくことにした。特に、従姉妹が、いざとなったら自動車で迎えにくると言ったことは、その必要が出るまで黙っていることにした。そうしないと、T村のような意志の弱いところがある男は、すぐに迎えに来てもらおうと言いかねないからだ。
私が駅前で自転車と共に待っていると、8時半にT村が新幹線から満面の笑みを浮かべて降りてきて、「おおお、ついに来たぞおー!」と叫ぶ。こいつはいつも声が大きい。早速駅前広場で自転車を組み立てる。その様子を、今川義元と徳川家康こと、竹千代の銅像が見守っている。銅像などを見ると、K大学歴史学科卒のT村は、すぐに何かうんちくを垂れたがるのだが、今朝は自転車を組み立てるのに気がせいているのか、特に何もコメントはしなかったので、私はホッとした。
しばらくすると、今度はT屋先生が袋に入った自転車を軽々と担いで東海道線の改札から登場した。驚いたのは、先生が極彩色のオレンジと緑のジャージに身を包んでいたことだ。82歳の翁が着る服とはとても思えない。緑とオレンジの組み合わせは、かなり微妙。はっきり言わせていただくと、あまり洗練されたコンビネーションとは言えない。どこかで見た配色と思ったら、東海道線の色ではないか。道理で、派手さの中にも野暮ったさがあるはずだった。
自転車のジャージには、大概は英語やフランス語で何かオシャレな言葉が書いてあるものだが、先生のジャージには「Hot Road N U M A Z U」とある。どういう意味かもわからない。こうなるとダサさを通り越している。人間も80歳を超えると、怖いものはないという証だ。とても、私のような凡人には着こなせないファッション感覚である。

いざ奥安倍に向けて出発
二人は15分ほどで自転車を組み立て終わり、「さあ、行きましょー!」と、T村が汽笛一声を上げる。早速、三人連なって、混雑した静岡駅前を離れた。
最初の目標は安倍川である。今日の最終目的地は安倍川の一番奥の梅ヶ島温泉だから、安倍川に突き当たりさえすれば道に迷うことはない、川に沿って行けばいいだけだ。安倍川は静岡市街のすぐ西側を流れている。我々は、しばし城下町特有のまっすぐな道を走っていくが、5分も走らないうちに、T屋先生が「ここらを左折すれば、すぐに安倍川ずら」と言う。T屋先生は、おっとりしているようでいて、案外気が短くて、まっすぐな道を走っていると飽きてしまうようなところがある。我々が走っているまっすぐな道は「安倍川街道」と言う名前で、このまま行けば、じき安倍川に合流するのだが、T屋先生はそれまで待てないらしい。そこで三人とも直角に左に曲がる。すると、先生の言った通りすぐに安倍川に出た。
見れば川の右岸にはサイクリング道がついている。交通量の多い県道を走るより、こちらの方がなんぼかマシだ。安倍川の河原はこの辺りではまだとても広い。青空が出ているが、もう梅雨なので、目の前の山の上には大きな、湿った雲がたくさん浮かんでいる。あのような雲が雨雲を形成して、雷雨が降る。静岡市の北側はすぐに切り立った山で、その奥は南アルプスだ。それら山々の頂も雲に隠れている。天気が少し心配だが、緑の山、モクモクした雲と、背景の青空がとても美しい。

そんな素晴らしいサイクリング道を走っていると、三年前に、三人で四国高知、仁淀川のほとりを走った時のことを思い出した。仁淀川は、その水の綺麗なことから「奇跡の川」と呼ばれているが、安倍川だって、それに劣らず綺麗だ。だが、安倍川の知名度は案外低い。すぐ隣に大井川が流れているからかもしれない。大井川は、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」とも歌われた東海道の最大の難所だった。だから、安倍川はその前座のように扱われているのかもしれない。
安倍川の両岸には段々山が迫ってきて、同時に人家はどんどん少なくなっていく。国道1号の下をくぐり、東名高速をくぐると、川縁にわずかばかりの家々がへばりつくようにあるだけになった。
最後のコンビニ
気持ちよく走っていると、突然T村が素っ頓狂な声を挙げた。
「そうだ、県民割引のクーポンを買っておかないといけないんだ!この辺に最後のコンビニがあるはずだから、止まらないとダメだ」そう言いながら自転車を止め、携帯を取り出す。そして「この先にファミマがあって、もうその先にはコンビニはありませんよ」と言った。
私は、日本に居住してないからよく分からないが、コロナ禍で疲弊した観光業を助けるために、政府はいろいろな割引クーポンを発行しているらしい。今回「富士の国地域クーポン」と言うものを、T村とT屋先生はファミマで購入する必要があったのだ。そうすれば今夜泊まる旅館の宿賃が大幅に割り引かれると言う。T屋先生は静岡県民、T村は神奈川県民なのでその対象なのだそうだ。私は、海外に居住しているのでダメである。でも、二人は、その割引のお裾分けを私にも下さるという。友達というのは非常にありがたい。
確かに、少し先にファミマがあったので、そこに二人は入って行った。10分ほどかかったが、まんまとその割引クーポンをせしめることに成功したので、めでたし、めでたし。

そのファミマであるが、看板には「ここが最後のコンビニです」とある。日本には5万5千以上のコンビニがあるらしいが、その中でも「これが最後のコンビニです」と表示できるものはそう多くはあるまい。その一つに、今日我々が足を踏み入れられたことは、滅多にないこと故、大層喜ばしいことだ。思い起こせば三年前、T村と一緒に四国を走った際、私は室戸岬の手前の牟岐(むぎ)という集落のコンビニで、「この先にまだコンビニがありますか?」と店員に質問したことがある。私はトイレが近いので、念のために聞いたのだ。その店員は、よくぞ聞いてくれましたとばかり、「少なくともあと三つはありますよ!」と答えた。室戸岬にさえ、それだけコンビニがあるのだから、この安倍川における「最後のコンビニ」宣言には、かなりの重みがあるだろう。我々は、今日これから銀輪を進め、コンビニ未到の極地に入っていくのだ。
だから、私は、気を引き締めるためにこのコンビニでトイレを借りておいた。「先生はトイレ大丈夫ですか?」と尋ねるが、「オレは大丈夫だよ」と、T屋先生。先生は82歳にして、私ほど頻繁にトイレに行かないから見上げたものだ。私は、さらに、非常食として羊羹を二つとポカリスエットの粉を購入した。この先、腹が減って顎を出しても、誰も助けてはくれない。しかし、どう見てもここは普通のファミマとは変わらず、「最後のファミマ」という重みは感じられない。店先に、句碑の類があっても良いのではないだろうかと私は思った。
険しくなった道
さて、私たちは、安倍川の奥の奥を目指して、銀輪を進めた。やがて川幅は細くなってサイクリング道もなくなったので、私たちは県道を走って行く。幸い坂の勾配はまだ緩い。
最後のコンビニから数キロいくと吊り橋が現れた。赤くペンキが塗られているが、かなり錆びている。私はこうしたものを渡るのがとても苦手であるのだが、T村はスリルが大好きと見えて、「おお、吊り橋じゃあ。ちょっと寄っていきましょう!」と嬉しそうである。

これが何のための吊り橋かというと、対岸には茶畑に囲まれた小さな集落があり、村民の行き来を考えての施設と見える。T村とT屋先生はスタスタと吊り橋を渡っていくが、私は高いところが苦手なので、20メートルばかり行って引き返した。見れば、この長い橋は細いワイヤーで吊り下げられているだけである。こんなものに命を託すのは間違いだ。風のある日など、グラグラ揺れてさぞ恐ろしいことだろう。私は、それだけで、俺はこの場所には住めないと思う。こんな橋を毎日渡るなんて御免だ。
吊り橋を過ぎると、もっと川幅が狭くなる。見れば、対岸の崖が大きく崩れている所などもある。対岸には道路がないから崩れても構わないのだが、考えてみれば、こちら側が崩れないという保証もない。従姉妹の夫の消防士はこの辺りの集落の出身で、彼が「奥安倍は雨が降るとすぐ崖崩れが起きるから、雨が降ったら行かない方が良いずら」と言っていたことを思い出す。今日は良い天気だから大丈夫だろうが、今夜大雨が降ったりすれば、明日この道が崩れないとも限らない。そうすると、ここは一本道だから、私たちは奥安倍に閉じ込められてしまう。そうなったら絶体絶命だ。羊羹二本とポカリスエットの粉で何日生存できるだろうか。
さらに、山奥へ進んでいくと、道の勾配も少しキツくなった感じがする。時計をみれば、もう昼だ。「そろそろどこかでお昼にしませんか?」と提案すると、T村もT屋先生も、「腹減った」という返事だ。しばらく行くと「富士の里」という小さなドライブインがあった。この辺りではここが唯一昼飯を食べられる場所と聞いている。覗いてみると、メニューは手打ちそばくらいなもので、あまりバラエティーがない。T村は、それに不満だったようで、「ちょっとだけこの先に行ってみましょうよ、イタリアンがあると私の携帯に出ています」と言う。安倍奥でイタリアンでもなかろうと思うのだが、T屋先生も、「そうだで、ちょっと見てみよう。こんな場所のイタリアンは案外美味しいかもしれないぜ」とおっしゃる。そういえば、T屋先生が着ているジャージは緑とオレンジの東海道線の色合いだが、イタリアの国旗のカラーリングと言えないこともない。
「こっち、こっち!」とT村が我々を率いて坂をぐいぐい登っていくが、なかなかイタリアンは見当たらない。ふとみると、道端にその看板があり、さらに山奥へ続く細い道の方へ我々を誘っている。これはもしかしたら、宮沢賢治の「注文の多い料理店」のようなことになるかもしれないと私は密かに懸念した。
案の定行き着いた先には、イタリア料理店の建物があるにはあったがが、平日は休みであった。そこで、私たちは2キロほどの道をまた戻って富士の里へ行った。せっかく登った坂を降りるのは、定期預金が満期でないのに下ろしてしまう残念さに似ている。
ワサビ飯のつーんとした風味
しかし、富士の里の昼食は期待を裏切らなかった。やはり、郷に入らば郷に従えのことわざ通り、イタリアンなどとは言わず、地元のものを食べるべきだ。ここで私たちは、「冷たいおろし蕎麦とワサビ飯セット」をいただいたが、実に結構な味だった。
まず、冷たいおろし蕎麦はなかなかの味であった。我々が非常に腹を空かせていたせいもあろうが、谷川の水でキリッと洗った手打ちそばはシコシコして美味しかった。ワサビ飯にはさらなる風味があった。私もT村も、ワサビ飯を食べるのは初めてだ。ワサビ飯とは、暖かいご飯の上に、削りたての鰹節がフワッと敷いてあって、その真ん中におろしたての生ワサビがちょこんと載ったものである。それに醤油を回しかけて、ハフハフと食べる、そんな単純な食べ物だ。しかし、その単純さが良い。素晴らしかったのは、食堂のおばさんが、我々の見ている前で、立派な太い生ワサビをスリ金でゴシゴシすって、それをご飯に載っけてくれたことだ。ワサビというのは、前述の従姉妹の夫の消防士が言っていたが、「根っこの方からすってはダメずらよ。茎の方からすらないと美味しくないずら」ということなのだ。富士の里のおばさんはローカルな人だったらしく、ちゃんと茎の側からすっていた。
私とT屋先生とT村は、ワサビごはんに醤油を丸がけして、ハフハフ頬張ったのだが、その途端にT村は「ハー、ハクション!」と大きなくしゃみをした。それくらい、生ワサビの香りはつーんと強力だった。ワサビと鰹節のコンビネーションは素晴らしく、私たちは瞬く間にワサビご飯を食べてしまった。もちろん、この味は新鮮な生ワサビでないと味わえない。チューブのインチキなワサビでやっても、到底おぼつかないだろう。
富士の里を出てすぐに、従姉妹の消防士の夫が言った通り、急激に坂がキツくなった。地図を見ると、私たちはまだ本日の45キロの行程の半分ちょっとしか来ていないことが判明した。全く油断していた。「さあ、ここからは気を引き締めて行きましょう、道は険しくなりますよ」と、T村が固い表情で言った。

山ビルに血を吸われたこと
T村が予見したように、道はかなり困難になった。川幅はもっと狭くなり、道は険しく急で、その上砂利を満載したダンプカーがビュンビュン走ってくるようになった。トンネルもある。対岸の崖にはかなりたくさん山崩れの跡が見られ、「クマ出没注意!」と書かれた看板も多数見受けられるようになった。もはやここは、生還が危ぶまれるほどの山奥であることは明白だった。もちろん、コンビニもなく、イタリア料理店も週末しかやってないような僻地なのだ。もしかしたら、冗談ではなくて、電話で私の従姉妹の救助を要請する事態がこの先あるかもしれない。
昼飯を食べて、少し眠くなったせいもあるが、私たちはしばらく無言でペダルを漕いだ。いつの間にか空は雲で覆われ、暗くなってきた。坂道を登り、その先のカーブを曲がると、さらに坂道が続いている、そんな状況が続く。私は、緊張するとおしっこがしたくなる。さっき、富士の里でトイレに行ってきたのだが、またすぐにしたくなってきた。そう思いながら走っていると、ある橋のたもとに炭焼き小屋があるのが見えた。「ほう、こんなところに炭焼き小屋が!」と私は、先行する二人に聞こえるような声で言った。すると、二人は自転車を止めて、「ほー!」とか言いながら感心しながら炭焼き小屋を見ている。そこで私はすかさず自転車を降りて、藪の中で用を足した。

そうやって急場をしのぎ、私たちはいよいよキツくなる遡上を続けていくのだった。空はいよいよ暗くなってくる。こんなきつい登りで、しかも一雨来たら、その惨めさったらないだろう。やばいなあと思いながら、私はペダルを踏む。T村もT屋先生も同じ思いだろう。

しばらく進んでいくと、右足の膝の下が妙に痒い。見てみると、大きなナメクジのような生物が張り付いている。「何だこれ?」と、つまみ取ると、T屋先生が、「こりゃ山ビルだに。炭焼き小屋のところの藪でくっついたんだろうって。こいつらは人が草むらに入ってくると、木の上で待ち構えていて、落ちてくるんだ」と言う。私は蛭に血を吸われたのは生まれて初めてだ。目も鼻もないナメクジみたいな生き物のくせに、どうして人が来たことが分かるのだろう?全く気持ち悪い。おまけに、血を吸われた場所が蚊に食われたように痒い。参った、参った。
三人は、山ビルに襲われないように、藪にはなるべく近づかないようにして黙々と走る。1時間も行くと、右手に「黄金の湯」と書かれたカラフルな幟が見えてきた。温泉らしき木造の建物もある。「ここでひと休みしましょう。おやつでも食べて、元気を出して、最後の坂を乗り切ろう」とT村が言う。私は、熱いコーヒーを飲みたくて仕方がなかった。立ち止まると、6月というのに肌寒いくらいだ。ここは日帰り温泉のようで、温泉客の自動車がパラパラ停まっている。食堂があったので、「コーヒーありますか?」と聞くと、「今日はやってないでよ」とおばさんが答えた。私は、思わず「今日はコーヒーはやってない?」と復唱してしまった。なぜかと言うと、じゃあ、いつならコーヒーをやっているんだよ?という疑問が即座に脳裏に浮かんだからだ。だいたい、コーヒーに季節や曜日があるのか?静岡県では、偶数の日にはコーヒーで、奇数の日はお茶だけとか言う条例があるのか?と、おばさんに詰め寄りたくなった。それくらいコーヒーが飲みたかったのだが、ないものはないのだから仕方がない。だいたい、静岡のこんな山奥で、淹れたてのコーヒーにありつけると思うこと自体間違いかもしれない。
外には自販機があって、そこには缶入りのコーヒーがあったにはあったが、温かいコーヒーはなくて、冷たいコーヒーしかなく、私は、絶望的な気持ちになった。しかし、優しいT屋先生は、そんな私の気持ちを汲んでか、「まあ、アメでも食べなよ、元気が出るよ」と、奥様が持たせてくれた飴玉をくれた。アメを舐めていると、子供の頃に甘いものを食べていると、悲しい気持ちが癒されたことなどを思い出し、疲れが癒された気がした。
「さあ、あと2、3キロで梅ヶ島温泉ですよ、あと一踏ん張り!」とT村が張り切った声を出した。ところが、この最後の2、3キロが一番きつかった。たかだか45キロと舐めたのがいけなかったのかもしれない。それから、従兄弟姉妹たちの「無理、無理、無理!」と言う言葉を真に受けなかったのもいけなかったのだろう。案の定、道はどんどん険しくなっていった。
登りながらT屋先生は、「いやあ、こんな急な坂は登ったことがないずら」、「こんな急な坂は来たことないでよー!」、「オラは坂は嫌いだー!」と1分おきに不平を言う。しかし、T村も私も、もはや何のフォローもしない。自分のことで精一杯だからだ。T村に至っては、言葉も発せず「ヒーヒーフー、ヒーヒーフー」と、臨月の妊婦のような呼吸音を立てながらペダルを漕いでいる。私は、二人を見捨てて、マイペースでどんどん登っていった。
15分か20分、あるいは30分くらいかもしれない。きつい上り坂が続いた。雨もパラパラ降ってきた。もうドツボだ、どうにでもなれ、と言う気分だ。そのドツボな気持ちが最高潮に達したその時、坂の上に、小さな屋根が見えた。それが梅ヶ島温泉だった。その4、5軒しかない小さな温泉街の、そのまた一番上の一軒が私たちの泊まる宿だった。
「あー、着いたよー、着いたよー!」と私は、宿の軒先で自転車から降り、歓喜の声をあげた。T村もすぐに追いつき、道端にへたり込んで、やはりヘラヘラ笑っている。振り返ると、T屋先生は、登坂をとっくにあきらめて、坂のまだずっと下の方を自転車を押して歩いている。「あーしんどい、もうこんな坂は二度と登りたくないずら」と、到着した先生はボソッと言う。見れば、勾配10%に近いような急坂だ。よくまあ、82歳の恩師を引きずるようにして、こんな坂を登ってきたもんだ。老人虐待と言われても、否定できないだろう。

静岡駅を出たのが今朝9時過ぎ、梅が島温泉に着いたのが午後3時過ぎ。45キロを走るのに6時間かかったのだから、平均時速7.5キロだ。歩くのよりちょっと早いだけの、鈍足のサイクリング旅行1日目だった。
宿に着いた早々、「われら無事到着せり。迎えの必要なし」と、心配する静岡市の従兄弟姉妹たちにテキストメッセージで報告したことは言うまでもない。
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