読書は横滑りしていく
- 鉄太 渡辺
- Jul 15, 2021
- 4 min read
2021年7月15日
日本へしばらく帰れないと、手元に読む本が足りなくなって苦心します。英語の本もずいぶん読んだけど、やはり体にぴったりしたシャツを着るように、日本語を読まないと生きている気がしません。そこで、書棚にある本を引っ張り出していたら、これまであまり手にしなかった本もあったりして、新しい発見もあります。

最近手にした本に、古い本ですが詩人の大岡信が編集した『折々のうた』(岩波新書)がありました。これは私の大学時代、親友だったM君が、私が1年間アメリカの大学に留学することになった時、餞別がわりにくれた本でした。一巻から五巻まであったはずなのですが、なぜか四巻が欠けています。でも、僕はその頃短歌や俳句にはちっとも興味がありませんでした。それどころか、『折々の歌』は今日まで全然読まないで本棚で埃をかぶっていました。M君は大学を卒業すると、広告代理店のコピーライターになり、いくつか大きな仕事もして広告業界ではちょっとは知られたクリエイターになりました。ところが働きすぎがたたって職場で倒れ、十数年前に帰らぬ人になりました。私が『折々の歌』の本を処分しなかったのは、そんなM君の思い出があったからに違いありません。
それで、やっと『折々の歌』を読んだのですが、これまで知らなかった古今の作家による短歌や歌を存分に楽しみ、今更ながらM君に感謝したい気持ちでいっぱいになりました。オーストラリアで英語に囲まれて生活すること4分の1世紀が経ちましたが、それでも日本語は私には一番しっくり、ダイレクトに響いていくる言語なのです。

それで『折々の歌』で詩歌や俳句に今更ながら目覚め、そこから私の読書は横滑りしていきました。今、机の上には高浜虚子選『子規句集』、松尾芭蕉『おくの細道』、高浜虚子『俳句への道』、『漱石俳句集』、『山之口獏詩文集』といった本が積まれています。
最近、詩をたくさん読んでいると、もっと身近な歌詞についても興味が湧いてきました。この間ポール・サイモンの伝記を読んだことは書きましたが、サイモンの書く歌詞は、サウンド・オブ・サイレンスを始めとして、どこか禅ぽいところがあります。それはともかく、実はサイモンは、歌詞を言葉のコラージュのように集めて書くのだそうです。いろいろなところで耳にした言葉、古い歌の歌詞、広告の文章などをノートにしたためておき、それらをつなぎ合わせて歌詞にまとめていくんだそうです。サイモンの歌には物語性があるから、実はそんな書き方をしていると知ってちょっと驚きました。

もちろん、詩と歌詞はよく似ているようで、実はとても異なるものです。試しに詩人の書いた詩を音楽に載せようとしてもあまりうまくいかないし、あるいはどんなに素晴らしい曲でも、曲なしで歌詞を読んでみても、その素晴らしさが伝わってこなかったりします。
でも、中には上手に詩を曲に載せてしまうミュージシャンもいます。高田渡というフォークシンガーは、山之口貘や木島始たちの詩を、最初から歌詞として書かれたように歌っています。それはそれで、類稀な才能なのでしょう。

横滑りといえば、高田渡の曲をネットで検索していたら、高田の「生活の柄」という曲(これも元は山之口貘の詩)をカバーで歌っていた折坂悠太というシンガーに行き当たりました。折坂の歌は、私は初めて聴いたのですが、日本ではテレビドラマやC Mソングなどによく使われているようですね。実に素晴らしく歌の上手い人だと思いました。折坂の「寂しさ」という曲の歌声は、言葉が言葉としてより、もっと生な「音」として聞こえてくるようです。
詩と言葉、言葉と音の関係には興味がつきません。もしM君がまだ生きていたら、プロのライターの経験から、きっと面白い話をしてくれたんだろうにと、彼がもういないことを残念に思います。
私の読書は、当分日本語の書店にも行けないから、自分の書架の棚を左右に行ったり来たりして、狭い中で横滑りを続けていくんでしょう。
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