自転車が好き
- 鉄太 渡辺
- Mar 7, 2015
- 6 min read
Updated: Feb 15
2016年3月8日
お隣の庭先のユーカリの古木が枯れたので、市が突然伐り倒しにきた。自分の家の庭先でも、道路から二メートルくらいまでは市の土地で、そこにある木も市が管理する。お隣の夫婦はニュージーランドへ旅行中だった。それで、帰ってきたら家の前が伐採した丸太の山になっていて仰天。ご主人は、「伐ったのはいいけど、一番枯れている木を忘れているんだよ」と言った。見ると、一本、枯れ木が丸々残ってた。 これは、次回を待たなくてはならない。
そんなおかげで、我が家も薪のお裾分けにあずかった。ありがたや。まだ薪ストーブを燃やすには早いが、だんだんと秋が深くなってきている。

樵(きこり)は、高いところが好きでないと勤まらない
秋と言えば、読書だ(でも、何でだ?)。地元ベルグレーブの小さな図書館に週に一回は行くが、図書館で本を借りる良さは、自分では買ったり、選んだりしない様な本が陳列されていることだ。そういう本を読んで面白かったりすると、うれしい。特に、日本語になってないオーストラリアや他の国の作家を知ると、新しい友達ができたような気分だ。
この間読んだ小説、Louigi’s Freedom Ride(Alan Murray、Fourth Estate 2014)に影響されて、僕の中で自転車熱がぶり返している。オーストラリアに来てから、自転車からはやや遠ざかっていたのだが、この本のおかげで再燃した。
これは、オーストラリアの作家の本だが、イタリヤの北部田舎町で生まれ育ったLouigiという自転車少年の物語である。時代背景は、第二次大戦前から現代までである。Louigiは物心がついてからずっと自転車が大好きで、あちこち乗り回していた。親父が鍛冶屋で工具類がうちに豊富にあるから、自転車修理にも詳しくなる。やがて第二次大戦が始まり、ムッソリーニの自転車部隊に入った。ところが戦争が激化してくると、イギリスのスパイと知り合いになり、やがてファシストであるムッソリーニに抵抗するレジスタンス活動に参加する様になる。そうやって、ナチスドイツやイタリヤのファシスト党に抵抗しているうちに戦争がどうにか終わる。そこで今度は、子ども時代からの夢であった「地球の果て」オーストラリアまで、自転車旅行をすることになった。途中でイスラエルに寄ったり、スリランカで酒浸りになったりするが、どうにかシドニーにたどり着く。そればかりか、そこで戦争で離ればなれになっていた友達や恋人に巡りあったり。それから恋人と結婚し、シドニーの裏町で自転車屋を開くと、それが成功して、最後はシドニーの北の海岸沿いの田舎町に引っ越し、そこで幸せに生涯を終えた、というお話。シドニーでイタリヤ時代の恋人に偶然再会したりするくだりは、かなりご都合主義的だが、それでも非常に楽しい物語で、あっという間に読み終えた。
また、この本には、自転車に関する引用があちこちにちりばめられてあって、それがけっこう面白かった。
例えば、こういう引用。
「空気圧ってのは、とても大事だ。例えばトランペット奏者で、このことを分かってない奴は、決して、甘い素敵な音を出せない。自転車のタイヤと同じだ。正しい空気圧は「彼女」をクールに、やすやすと運んでくれる。空気圧がちゃんとしてないタイヤは、ばあさんのオッパイと同じで、ぺったんこで、まるで役に立たない。
ザビエル・ヌガット、パナマ・スター・クインテット1937年」
引用をもうひとつ。
「サイクリングの喜びは、グライダーで空を滑空することに等しい。サイクリングには、心を静かにする何かがある。それは、体と心、精神と肉体の完全な統合の境地である 。きちんと指導しさえすれば、サイクリングは、どんな狂気も、平静で正常な心に戻すことができるだろう。
ベレッカー・ボルグ、『銀輪とギア、あるいは運動セラピー』1968年」

トノムラと僕、信州に向かう朝(1978頃)
僕は、中学時代から高校時代、それから大学時代まで、サイクリングが好きで随分いろいろな所を走った。最初のサイクリングは、中学一年の夏休みの初日、中学校の寮があった沼津から、 同級生のトノムラ君と東京の実家へ走って帰った。箱根の山もものとはせず、130キロの道のりを矢の様に走破した。
それからは、箱根、伊豆、富士、東海道、奥多摩、丹沢、秩父、甲州、信州、木曽路、飛騨、伊勢と、休みの度にどんどん足を伸ばした。僕の輪友(懐かしい言葉だ!)は、長いことそのトノムラ君だったが、やがて、大学の同級生だった妻ともあちこち走る様になった。彼女も自転車好きで、卒業後はしばらく『サイクルスポーツ』という雑誌の編集部で仕事をしていたくらいだ。僕は、北海道は二周したが、一周はトノムラ君と、もう一周は妻とした。
ところが、オーストラリアへ引っ越してからは、以前ほど自転車に乗らなくなった。子どもも二人いるし、仕事も忙しいという月並みの理由もあるが、加えて言うならば、オーストラリアはアメリカみたいな車社会だから、案外自転車で走り難いこともある。自転車でのろのろ走っていると、車に弾き飛ばされそうになる。普通の道路でも自動車は、80キロ、90キロで走るから、道路を選ばないとなかなか恐ろしい。
もうひとつ言うならば、町と町の間の距離が非常に長いから、自転車のツーリングとなると、半端ではないということもある。日本やヨーロッパなどでは、どんなに田舎に行っても、4、5キロも走れば、隣村や町があって、そこにはお店もあれば、レストランやコンビニもあるだろうし、キャンプ場や、日本だったら温泉だってある。だから、走っていて飽きないし、休む場所にも事欠かない。

昨夏、南仏にて、息子鈴吾郎
ところが、オーストラリアでは、僕のいるビクトリア州でも、ちょっと田舎に行けば、100キロ、200キロくらい行っても、何もないのが珍しくない。200キロは、自動車なら2、3時間だが、自転車では、頑張っても2日はかかる。
そんなところを軽い気持でサイクリングなんか出来ない。もちろん、そういうところを走っている猛者も、いるにはいる。何時だったか、田舎を車で旅行していたら、日本人のサイクリストとすれ違った。荷物を満載した自転車に、日の丸をつけて走っていたからすぐ分かった。
その後、四日程して、僕が同じ道を戻ってきたら、またその自転車青年を追い越した。前にすれ違った所から大して前進してなかった。これが、オーストラリアのサイクリングの実情である。
ところがLouigi’s Freedom Rideを読んでいたら、昔のサイクリングの喜びがふつふつ蘇ってきた。峠を越えた時の達成感、その後に長い坂道を下る時の爽快感、丸一日自転車をこいだ後の心地よいけだるさ、知らない町を訪れる旅情、そんな感覚が僕の記憶の底から浮き上がってきた。
僕は、たまらなくなり、物置に突っ込んであった古いサイクリング車を引っ張り出してきた。少年時代は宝物のように大事にしていたが、最近は埃をかぶり、物置で錆だらけになっていたのだ。思えば、15歳のときに買ってもらって以来40年、この自転車と僕は二人三脚で生きて来たと言える。ちなみにこの愛車は、ブリジストン、ダイヤモンドキャンピング、15段変速。当時の自転車としては、かなり高級車だった。うちの親も、よくこんなものを買ってくれたものだ。

錆だらけのダイヤモンド号
そんなで、この自転車をすっかりきれいにして、またサイクリングをしようと、僕は企んでいるのだ。

塗装を待つフレーム

皮サドルは、ひび割れをお手入れ中

パーツ類も磨いている
付記:
メルボルンも、最近は自転車ブーム、エコブームなので、シティの中は大分自転車道が整備された。それから、田舎にも、レイル・トレイルと言って、昔鉄道が走っていた後を自転車や馬や徒歩で歩ける様にしてある場所がたくさんある。そういった場所を、あちこち走ってやろうと思っている。
Comments