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日本帰国中の自転車旅行第二弾: 山形県最上川サイクリング  二日目、寒河江から山寺に詣で、尾花沢まで走る  (走行距離約80キロ)

Updated: Jan 21

2022/07/29



「涼しさを我宿にしてねまる也」 


松尾芭蕉


(尾花沢で清風と言う知人の家に泊まった時の句)






「うしろをふりむく必要はない。あなたの前にはいくらでも道はあるのだから」


魯迅


山寺に行こうか、どうするか



今回の最上川サイクリングでは、山寺へ寄るかどうかがなかなか決まらない案件だった。山寺とは宝珠山立石寺の通称である。ここは何でそんな有名かと言えば、「静けさや岩に染み入る蝉の声」と芭蕉翁が詠んだその場所だからだ。


山形まで電車や自動車で観光に来たならば、間違いなく人は山寺へ寄るであろう。芭蕉の句だけではなくて、山寺というくらいですごい山の上にあり、インスタスポットとして有名なのだ。


その山寺へ行くかどうか我々は議論を重ねてきた。その理由は、山寺が最上川からぐっと東にずれたところにあって、15キロほど迂回しなくてはならないからだ。自転車だと15キロは概ね1時間、しかも山寺は山だから、かなり坂を登らなければならない。それだけでなく、山寺についてからも1015段もの石段を登って参詣しなければらない。こう言うのを英語では、ダブル・バインディング、すなわち「二重苦」と言う。


だから、雨でも降っていようものなら山寺行きはすぐに却下される案件だったのだが、その朝寒河江のチェリーパークホテルで目覚めると、素晴らしい青空だった。天気予報も「晴れときどき曇り」である。だから、即決「山寺へ行こう!」となった。こういうところが一人旅と二人旅の違う点だ。私は、一人旅だと寄り道はことごとくパスする傾向がある。ところが二人旅だと寄り道することが多い。なぜかと言うと、お互いに相手がもしその場所に行きたがっていたら悪いと言う配慮をするからだ。今回の場合、山寺へ寄ろうと言い出したのは私で、だからT村は、「前からT太が行きたがっていたんだから、やっぱり行こうぜ」と言う。私的には、ただ山形と言えば山寺だと記憶していたからそう言っただけなのだが。


話は変わるが、寒河江チェリーパークホテルの朝食ビュッフェについて、実は私は原稿用紙三枚分くらい書きたいことがある。しかし、そんなことをしていると私たちは、いつまで経っても、山寺はおろか今日の目的地の尾花沢に到着できない。だから朝食ビュッフェについてはまたの機会に譲ることにするが、ただ、一言だけ触れるならば、チェリーパークホテルと言う名前通り、ビュッフェにはとれたての寒河江特産サクランボが食べ放題で供せられていた。このホテルに泊まっているのは中高年の夫婦者や女性グループが多かったが、こういう人種は何事においても元を取らなければと考えている。その典型的なものが朝食ビュッフェあろう。彼女らはなるべく高価で、しかもその時節にしか食べられない名産物に群がる習性がある。ここでも、ボーイさんがサクランボを大きなボウルに入れて運んでくるや否や、彼女たちは、わっとばかり瞬時に席を立ち、サクランボのボウルに群がる。ボウルいっぱいのサクランボは時価にして3000円相当だろうが、これがものの2分で空になる。これが別のもの、例えば納豆や切り干し大根だったら絶対に有り得ない現象だ。T村もこう言う食べ物を目にすると、つつしみをかなぐり捨てるタイプなので、「お、サクランボだ、俺ももらってこよう!」と立ち上がり、中高年女子の猛者たちをかき分けて、サクランボをゲットしてくる。私は、もちろん高見の見物である。



山寺にて 


さて、チェリーパークホテルを出た頃はまだ風は涼しかったが、天童市を縦断し、山寺への登り坂に取りかかった頃には、太陽がギラギラ照り始めた。我々は、干からびつつあるミミズになった気分で、その坂をうんせうんせ登った。道脇には取り入れを待つサクランボ農園が並び、その間を農協の広報車がアナウンスをしながら走っている。「サクランボの取り入れの時期がやってまいりました。サクランボの盗難が非常に多くなっていますので、怪しい人物や車には注意してください。サクランボの盗難を見つけたらすぐに市役所や警察に通報してください!!」






我々は自転車でゆっくり坂を登りながら、怪しいものじゃないことを広報車に伝えるために、無理に笑顔を作り、手を振ったりしたが、もしかしたらかえって怪しいと思われたかもしれない。 



我々が山寺についたのはまだ朝の9時ごろだったが、太陽はもうギンギン照り始めていた。それでも自転車を捨てて山を登り始めると、参道は深い緑の中にあるので思ったほど汗はかかなかった。私たちはその1015段もある石段を一歩一歩踏みしめながら山寺へ登り、岩山からの絶景にしばし息を呑んだ。T村が、昨夜の焼き肉と蕎麦の暴食のたたりで便秘になっていたことは前回書いたが、山頂近くでトイレに入ると、その問題は解消できたようだった。その証拠に、T村は実に清々した顔つきになってトイレから出てきた。まさに立石寺のご利益であろう。あるいは、高いところに登ったから引力が作用したのかもしれない。仏閣の類は山上にあることが多いが、便秘気味の人は一度登ってみることを勧める。



山寺を降りて、我々はいよいよ本日の目的地、尾花沢へ向かった。しかし、尾花沢はまだ50キロ先にあるから、うかうかはしていられない。時間はもう昼近い。


私たちは、また最上川に合流するためになんとなく北方向に向かって進んでいたが、いつの間にか天童の町中を走っていた。お日様は頭の真上で、そろそろ昼飯の時間である。そこでまたT村がケータイを取り出し、蕎麦屋の検索を始めた。しかし、彼がケータイの画面を見ている間にも、私の肉眼は二軒の蕎麦屋の看板を視野に入れていた。それくらいこの辺りには蕎麦屋がたくさんある。


そこで私たちは、とある裏道の、蕎麦通が好みそうな渋い感じの店に入った。その名も「又右衛門そば」である。店で働いているのは全員おばさんで、蕎麦を打っているのも年配の女性だったのがちょっと意外だった。メニューを開くと品数は多くなく、私とT村は「冷やしおろしキノコそば」を選択した。レディースセットというのもあって、こちらはお蕎麦をはじめとして、天ぷらや煮物やデザートまで付いたお値打ちセットなのだが、はっきりと「女性のみ」と書いてあったので諦めざるを得なかった。この店は、働いているのも女性のみだから、ひょっとしたらフェミニストの蕎麦屋なのかと思ったが、名前が「又右衛門」なのだからそんなことはないだろう。「大奥」とか「お局」とか命名したら女性の集客力も上がると思うが、そういう名前では蕎麦が不味くなるかもしれない。やっぱり「又右衛門」がいい。



私たちが、冷やしおろしきのこ蕎麦をずるずる食べていると、女性だけ六人のグループが賑やかに入ってきた。中高年おばさんの一団だが、みんなぴらぴらした花柄のワンピースに派手な帽子などを被っているから、こう言うのを「女子会」と呼ぶのだろう。私は、たちどころに「ははーん、こういうおばさんたちは、きっとみんなレディースセットが目当てだな」と推察した。そしたら、私の考えはほぼ的中し、女子会はレディースセット5個、冷やしおろしきのこ蕎麦がひとつというオーダーをした。




最上川の土手沿いの道が突然なくなる


私たちは、又右衛門のそばに非常に満足し、店を出ると最上川沿いに出て、尾花沢に向かって走った。このあたりの地平はほぼ平らで、その中をウネウネと最上川が流れている。川の両側には町があり、集落があり、工場があり、農作物の収集場があり、学校があり、いろいろなものが散見され、全く飽きない。私は、普段はオーストラリア東部メルボルンに住んでいるが、オーストラリアの風景はちょっと田舎に出た途端、時速100キロで飛ばしても2、3時間くらいではちっとも景色が変わらなくなる。そこのところをオーストラリア人はすごいだろう!と言うのだが、そんなことだからいつまで経っても大雑把な精神のままなわけで、だからきっとウォッシュレットの使い方も学べないでいるのだ(前回の原稿を読んでください)。とてもじゃないが、私はそんな変化のないところを自転車で走ろうとは思わない。しかし、日本はこのように時速15キロで走っていても、刻一刻と景色が変わり、史跡があり、橋があり、句碑があり、田があり、畑があるから変化に富んでいる。悪く言えばごちゃごちゃしているのだが、山形とか四国辺りのごちゃごちゃ加減は、実にちょうど良いごちゃごちゃ加減だ。


「お、土堤にちょうどよいサイクリング道路がある!ここを走ろう」とT村が川沿いの土手道に入っていく。小高い土手は景色もいいし、自動車も来ない。河原をみると、山形牛に食べさせるのだろうか、干草の取り入れが行われている。大きなロール状に丸めた干草をパワーシャベルでトラックの荷台にゴロゴロ載せている。遠くから眺めると、レゴブロックを積み上げているようにも見えて面白い。T村はこの光景にいたく感心し、一部始終をケータイのビデオに収めている。


昔の「とびだせ青春!」のテレビのように、T村と私が土手道を走っていくと、驚いたことに突然道がなくなった。なんの前触れも、警告もない。昨今の日本でこんなことは珍しいが、ここは山形県であるから、東京や神奈川の常識ではあり得ないことも起こるのだろう。そこで土手道を2キロばかり引き返す。


「今度から、土手道を走るときは疑ってかかろう」と、我々は肝に銘じた。どうやら環境の厳しい山形県では、川沿いの土手道は、サイクリングとか犬の散歩とかデートとかの軽薄な目的のためにあるのではなく、あくまで河川管理のエッセンシャルな用途に位置付けられているようだった。浮いた気持ちで山形県を旅してはいけないのだ。


我々は、土手道は避けつつも最上川からはなるべく離れないようにして、旧道を走っていく。山形の地名には地味な名前が多い。「碁点」、「稲下」、「樽石」、「漆山」など、伝統的な生活に根付いた名前の村落を通りすぎていく。語源は分からなくとも、想像力を刺激される。一方、関東地方の都市部の地名からは、日本伝来の伝統が絶滅寸前にあることがはっきりと分かる。特に、T村が居住している横浜市緑区あたりにそれが著しい。T村が通勤に使う田園都市線沿線の駅名を見てみると、たまプラーザ、つくし野、あざみ野、すずかけ台など、ことごとく平仮名表記に移行しつつあり、しかも名前が指し示す実体が曖昧である。単に言葉の響きだけの命名なのだろう。中でも最も一番異様なのが、「南町田グランベリーパーク」という駅名だ。一体「グランベリー」とは何なのか? 食べ物か?パークと言うから公園の名前なのか?町田市民はこんな駅名を普段から口にしているのだろうか?「今度の土曜日は、グランベリーパークのステーションコートで待ち合わせて、こもれび広場で子供を遊ばせてぇ、それからアウトレットでお洋服の買い物してぇ、その後ギャザリングマーケットでお昼しましょうね!」などと話しているのだろうか?そんな地名を覚えるのは、記憶力が減退したお年寄りには到底不可能であろう。だから私は、山形県民にお願いしたい。できるだけ長く、昔ながらの地名を大事にして下さい、と。


話が横にそれたが、T村は「今日の午後はぜひ寄りたいところがある。それは最上川を眺めるスポットして有名な、真下慶治記念館という美術館だ」と言う。私たちは、そこでさらにまた脇道にそれるが、この美術館に向けて自転車を進めた。県道から2、3キロ離れた小道の横の、最上川が「S」の形にくねっているのを見下ろす小高い丘の上にその建物はあった。コンクリート打ちっぱなしの至極ミニマルな建築であったが、辺りの雑木林にマッチした感じの素晴らしい建築であった。真下画伯は、山形大学の教授も勤めた画家で、人生の大半を最上川の風景を描くことに費やした。ちょっと古臭い画風ではあるが、見事なまでに最上川の美しさ、寂寥感、野趣を描き出している。私は、その冬景色の絵に最も心を打たれたかもしれない。私たちは、展望室から真下画伯の絵にあるのと同じような最上川の眺めをしばし堪能した。





田園の美、コーヒー切れした私の苦悩


時計を見ると、もう午後3時、そろそろ私の体内時計が午後のコーヒーを渇望する時間がやってきた。私は、タバコは30年以上に、酒も4年前にやめた。幸いどちらもあまり苦労せずにやめられた。ところがその反動か、今はコーヒーがやめられない。朝一杯、午後一杯どうしたって飲まなくてはいられない。


そんな私は、真下慶治記念館のカフェで美しい景色を見ながら、淹れたてのコーヒーを飲む心づもりでここまで来たのだった。ところが、無念にもカフェは閉じていた。仕方がないので、さらに田舎風景の中を走り続ける。道脇にはアスパラ畑があり、ジュンサイ沼があり、果樹園があり、朽ち果てた農具小屋があり、午後の斜光の中で農夫が働いていて、その背後には、奥羽山脈が光っている。まるでミレーかゴッホか佐伯祐三が描くような素晴らしい風景だ。しかし、そんなことは裏腹に、私の体はピン!ピン!とカフェイン切れであることを前頭葉に伝達してくる。これがカフェインでなくて、ヘロインとかモルヒネとかエクスタシーとか、そういうもっと強い薬物だったら、私は大変なことになっていただろう。真下慶治記念館を出て10キロはそんな状態で走っただろうか。目的地の尾花沢の近く、大きな県道の向こう側にローソンの青い看板が目に入った。ああ、これで救われた!と私は思った。


ローソンでありつけた100円コーヒーは、五臓六腑に沁み渡るようだった。生きていて良かった、ここまで走ってきた甲斐があったと思った。私を虐待するのは簡単だ。コーヒーを飲ませなければいい。今や私はコーヒーの奴隷なのかもしれない。コーヒーを貪るように飲む私を見るT村の目は、麻薬患者を憐れむような、どこかに冷ややかさを含む眼差しだったような気がするのは気のせいだろうか。

ローソンから尾花沢はすぐだった。尾花沢は山形の北東部にある小さな町である。私はこの「尾花沢」と言う響きがなぜか好きで、一度で良いからここへ来てみたいと思っていた。しかし、来てみると、どうと言うことのない静かな田舎町であった。印象に残ったのは、町外れのやたらに大きなスーパーだった。その横には、やはり大きすぎるコインランドリーがあった。町の中心を走る、細長い昔ながらの街道筋を行くと、古びた店がポツンポツンあるのみだった。スイカの産地らしく、スイカの看板やスイカを売る八百屋が目立ったが、他に目ぼしいものがない。パン屋には、「スイカパン」と言う看板が掲げてあった。スイカのような水っぽい果物をどうやってパンにするのか疑問だったが、そのパン屋は閉まっていたのでその疑問を解くことはできなかった。 


我々の泊まる宿は、「ビジネスホテルおもたか」であった。ビジネスホテルと言っても、2階建ての普通の家みたいな建物で、「商人宿」と言った風情である。だからといって裏ぶれた悲しい感じの宿ではなくて、どこもピカピカで整理整頓された感じの良い宿であった。


早速風呂に入って汗も流すと、「さて、晩飯はどうするか?」と言う問題をT村が口にした。昨夜は寒河江で焼き肉を食べて、二人ともお腹が苦しくなったのはまだ記憶に新しい。「今夜は、なんか普通のものを食べようよ」とT村は言う。「普通のものって何だ?」と私が問うと、「焼き魚定食とか野菜炒めとかトンカツとか、そんなものだよ」とT村。私も、その考えにはやぶさかではなかった。


そして、熟慮の結果、我々が選んだのは「昭和食堂」と言う店だった。というか、尾花沢で晩飯が食べられる場所は、某牛丼チェーンを除くと、もうほとんどそこしかないくらい小さな町なのだった。そこで暗くなりかけた町を、私とT村は自転車のライトをピカピカ点滅させて昭和食堂へ向かった。


昭和食堂は、外から見ると薄暗くて、営業しているのかどうか判然としなかった。まるで普通の家の玄関に暖簾を下げただけのような構えだったが、その割には駐車場がやけに広い。きっと土地が安いのであろう。家を買うなら尾花沢かもしれない。


我々はややビクビクしながら店に入った。知らない町の、知らない店に入る時は、ちょっと緊張する。ところが、入ると中は明るくて、店のおばさんも明るい声で「いらっしゃいませぇ!」と言った。T村は、我々が怪しい者ではないこと、横浜と東京から自転車できたこと、でも米沢までは新幹線だったこと、尾花沢には初めてきたこと、あと二日かけて酒田まで走ること、腹が減っていることなどを、手早く簡潔に、おばさんに話した。T村は営業マンなので、とにかくよくしゃべるのだ。おばさんは、「へぇー、東京がらズテンシャ(自転車)で!」などと感動している。メニューをみると、ここは昭和食堂と言う店名でありつつも中華専門であることが判明する。東京あたりの中華屋は、普通「X X軒」とかいう名前のはずだが、山形県ではそうではないのかもしれない。我々は、餃子二人前、鶏肉とカシューナッツ炒め、豚肉とピーマン炒め、それにカニチャーハンを頼んだ。


おばさんは、我々がまるで中学生のようにこれらを残さず食べたので、「あれまあ、あんだたつは本当によぐ食べたなぁー」と感心していた。ここで台所用品営業マンのT村は、愛想良く会話を始める。普段の営業活動の癖だろう。「この店は昭和食堂っていうくらいだから、昭和からやっているわけかなぁ?」すると、店の奥から年配のおじさんが登場して言う。「そうよ、この店はもう50年もやってるんだ。」T村は、「ヒョエー、すげえ!じゃあ、俺たちさぁ、100周年の時にもう一度来るからさあ、それまで元気でやっててよー」と景気良く言う。よくまあ、そんな出まかせを言うもんだと思うが、T村は、こんな風にして何十万円もする流し台や皿洗い機を売り込むんだろう。そんなこととはちっとも知らない昭和食堂のおじさんとおばさんは、うれしそうに「あんだたつが来るの、首長くして待ってるよー」と、私たちを送り出してくれた。


宿に帰る前、先のスーパーに寄ってグレープフルーツを買った。旅行をしているとビタミンCが欠乏するのだ。T村と私は、部屋でこれを二人して分け合い、お茶を飲んだ。ビジネスホテルは街中にあるが、とても静かだ。車もほとんど走っていない。寝る前に窓を開けて夜空を眺めたが、外は真っ暗だった。冷房など全く必要もなく、私は窓を開けたまま寝たが、ほとんど何の音もしない。


サイクリングも、丸二日間続けて走ると疲れも溜まってくる。今日も80キロ近く走ったし、山寺の石段も登って降りた。そのせいか、太ももがぱんぱんだ。私は闇夜に包まれて、ぐっすりと眠った。


(三日目「尾花沢から銀山温泉を経て羽根沢温泉まで」に続く)




 
 
 

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