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日本での自転車旅行 (その4) 静岡編最終回:大井川青部の猫宿から金谷と牧之原台地を経て、蓬莱橋でこの旅を終える

2022/07/16




「駿河路や花橘も茶の匂ひ」 松尾芭蕉 



青部集落の朝


青部の猫宿では、夜中猫たちがミャーミャー鳴いていたが、T屋先生も私もT村も熟睡したのだった。二日続けて7、80キロも自転車を漕いでくたびれたから、よく寝られたことと言ったらない。


それでも3人とも6時には目覚め、顔を洗うと宿の前で茶畑を眺めながら、宿の女将さんと立ち話をしていた。ご主人と女将さんは二人でこの民宿をやっているのだが、実は二人とも東京都心の出身で、土を触って暮らす生活をしようと5年前にこの青部に移り住んだ。民宿をしながら茶摘み、筍とり、果樹の世話などして暮らしているという。その上、猫が20匹もいる。


青部の村
青部の村

昨夜ご主人が話してくれたことには、青部の旧住民たちはこの二人の新住民を暖かく受け入れてくれたが、やはり新住民はいつまで経っても新住民のままだそうだ。それが実際にどう言うことかは、住んでみないと分からない。「大変だけども、ここでずっとやっていこうと思っています。でも、面白いんですよ、今でも、大井川のこっち側は駿河で、向こう側は遠江のままなんで、仲が良くないんですよ、あはは」とご主人。




私は、一人でカメラをぶら下げて、朝食前の散歩に出た。山の西側斜面の集落には家が50軒ほどあるだろうか。ほぼみんな農家のようで、あたりは一面茶畑だ。廃屋もある。大井川鐵道の青部駅には、始発を待つ人が二人。この鉄道を通勤に使う人もあるとは驚きだ。待っていると、昨日乗った東急鉄道の車両が二両編成でやってきた。



宿に戻ると朝食の準備ができていた。昨夜ご主人が、「朝食もたっぷり出すから覚悟してくださいよ」と言っていた通り、朝からご馳走だ。でっかい卵焼き、こんがり焼いてある塩鮭、シラスおろし、梅干し、香りの良い味噌汁。とろろ汁もとても美味かった。3人ともご飯のお代わりをしたが、一番食べたのはT屋先生だろう。


猫の寝ぐら
猫の寝ぐら

大井川を下流へ


さあ、今日で安倍川と大井川の自転車旅も終わりだ。出がけに宿の女将さんに、大井川の左岸と右岸とどちらを走って下ったら良いかと相談する。「右岸は大きな県道だから比較的平らだけど、トラックや自動車が多いよ。だからちょっと坂が多いけど左岸を行きな」と女将さん。


旅に出たら地元の人の意見を聞くべきだ。Googleマップを見てもそんなことは書いてない。私は、今だに紙の地図を持って歩くのだが、これを見ても左岸の方がひなびた細い道のように見える。しかし、「ちょっと坂が多い」と言う一言にT屋先生は難色を示す。「オレ、坂が多いのは嫌だなあ」。しかし、T村は、「でもねえ先生、右岸でトラックに轢かれてぺったんこになるよりは、少しくらい坂を上る方がいいんじゃないの?まあ、よっぽど坂があったら、右岸に渡ることにして、とりあえず左岸を行きしょう」とT村が説得する。彼は台所キャビネットを売るのが専業の営業マンだが、主婦に台所を売るときも、こういう脅し文句を言うのだろうか?




大きなズキーニを背負って走るT屋先生


青部から金谷駅まではおよそ45キロ。大井川左岸の道はなかなか素晴らしい。ほとんど下りで、ところどころ短い登りがある。川は大蛇のように右左にくねりながら流れるが、川幅が広いので景観も良い。昨日訪れた上流は深く谷が切り込んだ秘境だったが、下流のこのあたりは茶畑が広がり、集落があり、道路がある生活圏だ。


青部を出てしばらくすると、道の駅のドライブインがあった。駿河徳山と言うところだ。「ちょっとお土産を見ていきましょうや」とT村。この道の駅には、お茶やら蜜柑で作ったジュースやら山芋やら農産物が山のように売られている。それを買いに来たおじさん、おばさんも山のようにいる。


「あんたら、どこから来たの?」と、缶コーヒーを飲んでいるおじさんに聞かれた。自転車に乗っていると、必ずこう聞かれるが、答えるのが難しい。「私は横浜、この人は沼津です、この人は…東京」とT村が答える。私は、元はオーストラリアから来ているのだが、そんなことを言うと余計に話がややこしくなるから、適当に答えておくのがベスト。おじさんは、もっと話していたそうだったが、適当に会話を終わらせて、店を覗く。


ここでは、トマト、きゅうり、茄子など夏野菜もたくさん売られている。自動車で来ていたら箱いっぱい買っていくところだが、自転車だからそういうわけにもいかない。ところがT屋先生は、大きなヘチマほどもある黄色いズキーニを手に持ってしばし考えんでいる。やがて「オレ、これ女房に買っていくずら」と宣言した。昨日静岡でどら焼きを買えなかったから、代わりにこのズキーニで奥さんを喜ばせようという魂胆のようだ。


「でも、それ、どうやって持っていんですか?」と私。「リュックに入れてかついでいくずら」と先生。このズキーニ、おそらく2キロ以上はある大物だ。こんな重いものを背負って帰るなんて、先生の奥さんを愛する気持ちは、釈迦の慈愛にも引けを取らないだろう。


金谷で昼飯にありつく


ドライブインを出ると、私たちの平均速度はグンと落ちた。今やT屋先生が大きなズキーニを背負っているからである。下りではズキーニのおかげでスピードが増すのだが、登りでは極端に遅くなる。しかし、T村も私も、忍耐強く恩師の後から自転車を走らせた。


それでも比較的快調に我々は走り、昼頃金谷に着いたのだった。だが私たちはここではまだ電車に乗らず、牧之原台地に駆け登り、台地の上の茶畑の間から駿河湾と大井川を見渡してから島田方面に降り、世界最長の木橋として有名な蓬莱橋を渡り、島田駅から東海道線で帰路につく予定だった。


金谷といえば、一昨日昼飯を食べ損ねた因縁のある場所だ。「おい、T村よ、今日は昼飯を食べ損ねないようにしようぜ」と、T屋先生はサングラスの奥からジロリと目を光らせてT村に言った。T村は、この旅の企画から渉外まで買って出ているので、昼飯を食べる場所を探すのも彼の役割になっている。「そうですね、またあのパンじゃあ、洒落にならないですよね、ちょっとお待ちくださいねぇ!」と、T村は明るく言い、ポケットから携帯を出し、パンパンとGoogleマップを呼び出した。


「えーと、ここはどこだぁ?そうか、そうか、線路を渡ったところで、ここが、あそこで、あそこがここか。えーと、待てよ、えーとえーと…」と、独り言を言いながら携帯を叩いている。しばらくすると、「あ、あった、あった。この近くに和食屋があります!」とT村は嬉しそうに言い放った。


そこで私とT屋先生は、T村の後に続いて、あっちの小道、こちらの小道をうろうろ走り、およそ20分ほど金谷の街を引き回された。和食屋は見当たらない。どうやらT村は道に迷ったらしい。グーグルを過信すると、こうなるのだ。私は、空腹で倒れそうで、T屋先生も背中のズキーニの重さに、ひっくり返りそうになっている。あまりムードは良くない。


その空気を読んだのか、「あそこを歩いているご夫婦に聞いてみましょう」と、T村が額から汗を流しながら言った。やはり最後は人間に頼るしかない。「すみません、すみません、牧之原台地に登る県道はあっちですよね?そっちの方に食堂があるはずなんだけど、知らない?」とT村は道ゆく高齢者の夫婦に道を尋ねた。ところがその夫婦は、どこか遠くから来た人間で、そんなことを聞かれても分からないと、そっけなく答えて歩み去った。


見放された私たちは、さらにぐるぐるそのあたりを走った。そして、とうとう目立たない外観の、その和食屋を見つけたのだった。その食堂は普通の家のようで、本当に営業しているかどうかも定かではなかった。T村は「ちょっと偵察してきます!」というと、汗をダラダラ流しながら店に入った。すぐに出てくると、「営業しています!」とささやいた。


言うまでもないが、店に入るには、コロナ感染対策のアルコール消毒をし、デジタル体温計で体温を測らなければいけない。その時の私の体温は、なぜか34.1度であった。明らかに低体温症だ。きっと空腹のあまり、体温を失いかけていたのだろう。危ないところであった。でも体温が高いよりは低い方がコロナ的には良いことなので、構わず入店した。


中に入ると掘り炬燵の座席のある立派な店だった。カスリの着物を着た、感じの良い若い奥さんが出てきてメニューをくれた。私たちは3人とも海鮮丼を頼んだ。出てきた海鮮丼は素晴らしく生きの良い魚が乗っかっていて、とても美味しかったので、3人とも非常に満足した。


そして、こう言うとき、営業マンT村は必ず店の人に一声かけるのだ。それは多分良いことなのだが、前にもどこかで書いたが、彼の声はとてつもなく大きい。そんなに大きな声を出さなくても聞こえると思うのだが、彼は嬉しいと余計声が大きくなる。お茶を注ぎ足しにきたカスリの着物の女性に、果たしてT村は話しかけた。「いやあ、大変結構な海鮮丼でしたぁ!! で、この店は昔からやっているの?」「はい、40年前からです。でも最近建て替えたので、店自体は新しいんですけど」と女性は答えた。


するとT村は「ってぇことはだよ、あんたが生まれる前からやってるってことだよなぁ!」と大発見でもしたように答えた。「はい、そうです、確かに私が生まれる前からです」と女性は答えた。彼女の返事はあくまで丁寧で、そんなこと当たり前だろ!見ればわかるだろ?とこそ彼女は言わなかったが、私には彼女が間違いなくそう考えていることが分かった。なぜなら私自身がそう思ったからだ。


T村は、しばらくそういう無意味な会話を女性と続けている。一方、T屋先生は眉毛ひとつ動かさないでその会話を聞いているのだった。あるいは、全然聞いていないのかも知れなかった。何せ、T屋先生は中学高校の教員を40年勤め、最後は校長としてあらゆる修羅場をくぐってきたお人だから、教え子の一人が60歳にもなって、こんな内容のない会話をしていてもぜんぜん気にならないみたいだった。T村とは違って、T屋先生はとても人間ができている。


私は、T村がこれ以上会話を脱線させるともう二度と金谷には顔を出せなくなるので、「さあ、そろそろ行きましょう!」と二人を促して店を出た。



牧之原台地でお茶について学び、蓬莱橋を渡ってこの旅を終えたこと


海鮮丼で腹を作って店を出た私たちの前に立ちはだかっていたのは、牧之原台地と、そこを登っていくくねくねした急坂だった。T村はこの旅のプラニングの時点から、「この旅の最後は牧之原台地に登って、そこから駿河湾と大井川と富士山を見渡したいものだ」と言っていた。T屋先生も私もそのことに異議はなかったので、そう言うプランになった。なぜT村が牧之原台地にそうこだわるのか?それは彼によると、この台地が大井川の河口でこれだけの規模で盛り上がって存在しているのは、地学的見地からして全く稀有なことだからなのだそうだ。私は、その説明に一応納得はしたものの、本音を言うならば、そのことについてさしたる感慨は覚えなかった。しかし、こう言う場合、友の真意がよく理解できなくとも、そういう気持ちは尊重してあげるのが友情だと私は信じているので、今日はここまで大人しく走ってきたのだ。T屋先生もきっと同じ境地だったであろう。


牧之原台地の上ではしゃぐT村


ただ、T屋先生は今朝から2キロのズキーニを背中に背負って走っているので、最後になって牧之原台地の坂を登ることにいささか難色を示した。「ねえ、T村ちゃんよ、本当に牧之原台地に登らないといけないのかえ?この坂は、結構えらいでよ。前にも登ったことがあるけどさあ、すごい傾斜だでぇ、この坂はよう」とT屋先生は、できれば登りたくないと言う意識を露わにした。


しかし、T村はそんな空気は全然読まずに以前と同じ明るい調子で、「まあ、先生、大丈夫、大丈夫。こんな坂はあっという間ですよ、牧之原台地の標高は、えーと、たった270メートルです、すぐすぐ」。T屋先生と私は、270メートルと聞いて絶句した。最後に、そんな大坂を登らされるとは! しかし、T村は、そんなことお構いなく、元気よく、そして楽しそうに牧之原台地の坂をぐんぐん登っていった。T屋先生と私は、仕方なくその後に従った。


およそ30分後、我々は牧之原台地の頂上と思しき見晴台についに到達した。T村はそこから大井川を見下ろし、「ああ、ついに来たぞお!」と下に向かって叫んだ。南には駿河湾が光っている。富士山は残念ながら雲に隠れて見えないが、なるほど、絶景と言えば、絶景なのだった。だからT村が私たちをここまで引っ張ってきてくれてやっぱり正しかったと言えるのかもしれない。


少し行くと、一面の茶畑の真ん中に「お茶の郷博物館」と言う立派な建物があった。私は、そろそろ帰りの東海道新幹線の時間が気になり始めていたし、T屋先生も、早く家に帰って奥様にズキーニを見せたがっていた風なのだが、T村のテンションは上がるばかりだった。なぜなら、T村は裏千家のお茶を習っていて、お茶と聞くと猛烈な興味を示すからだ。茶畑の真ん中に、お茶の博物館があれば、とても素通りなどできないだろう。


そこでT屋先生と私は、「まあ、じゃあ、とりあえず入ってみましょうか」と渋々お茶の郷博物館に入場した。ところが、ここはなかなか素晴らしかった。入場すると、まずは新茶のサービスがあり、お茶ガールが楚々とお茶を入れてくれるのだ。これには、T屋先生も私も感激した。T村は、あまりに感激して逆上したので、この場所に携帯を置き忘れたくらいだ(すぐに、お茶ガールが追いかけてきて手渡してくれた)。展示も素晴らしく、世界のお茶、お茶の歴史、お茶の製法、お茶の種類が分かりやすく説明されている。最後は売店だが、ここでは、ありとあらゆるお茶が売られていて、私たちはつい財布の紐を緩めて、たくさん買ってしまった。私は、いつものようにコーヒーが飲みたかったのだが、当然ここにはお茶しかない。そこでホットの煎茶をいただいたが、これがまた実に結構な味だった。当分コーヒーを飲まなくとも良いと思ったくらいだ。


さて、お茶に詳しくなった私たちは、非常に満足したので、せっかく登った標高270メートルの牧之原台地も惜しみなく風のように降り、10分ほどで大井川における最後の目的地、蓬莱橋の袂に立ったのだった。この897メートルの橋を渡ると、本当に私たちの旅は終わりだった。



蓬莱橋で


長い、長い蓬莱橋を渡りながら、遠く霞に煙る奥大井の方を眺めた。こんな風に走ってきた方角を振り返って眺めるのは、自転車旅の終わりの満足なひとときだ。自分の足だけでこれだけの距離を走ったのだから。


「いやあ、素晴らしい旅だった。安倍奥も良かったし大井川も良かった!」と、3人は何度も繰り返し口にした。鈍足であったが、走った距離も三日間で250キロとは、なかなかのものだ。


そうだ、今度T屋先生に会ったら、あのでかい黄色いズキーニを奥様とどうやって食べたか聞かなくては。


(静岡編はこれで終わり。この後、山形最上川サイクリング編に続きます!)



 
 
 

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