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思いついて、クレズウィックまで行ったこと

2021年2月28日


昨暮れ、ロックダウン中にサイモン・マクドナルドと言う詩人(1906−1968)の伝記を読んでいて、その舞台となっているメルボルン 西方のクレズウィック(Creswick)という田舎町に行ってみたくなりました。Time Out of Mind (日本語仮題『思い出のあの頃』ヒュー・アンダーソン著)という本です。このサイモンさんは、詩人と言っても実は田舎の貧乏暮らしだった人で、クレズウィック周辺のパブでアイルランド民謡を歌ったり、おじいさんから聞いた民話を語ったりして酒代を稼ぎ、それ以外は、畑でジャガイモを堀り、廃坑を漁って金探しをしたりしていた仙人のような人でした。この本は、その人生を郷土史家が聞き書きしたものですが、その口調があまりに面白かったものですから、引き込まれて読んでいたのです。




 12月、外出規制も緩くなったので、僕はメルボルン東側の我が家から170キロほど西方のクレズウィックに向かいました。クレズウィックはバララットと言う大きな農業集積地の町の近くで、その辺には日本の製粉会社の工場なんかもあります。メルボルンまで車や電車で1時間なので田舎暮らしをエンジョイする人たちもたくさん暮らしています。クレズウィックの先には、鉱泉が出るので有名なデイルズフォードや、アメリカの作家マーク・トウェインが滞在したことのあるメアリーボロなどの風光明媚な田舎町があります。この一帯は19世期に金が採れ、ゴールドラッシュで沸いた土地でもあります。



 クレズウィックで特に見たかったのは、サイモンさんが住んでいたスプリングモントという入植地一帯のブッシュです。スプリングモントの丘は、アイルランド移民が19世紀半ば、アイルランド大飢饉の時に入植し、開墾して畑を作った場所だそうです。サイモンさんはその子孫なのです。

 

この本には、サイモンさんの子供時代の様子や、最後は町外れのブッシュで木の皮で葺いた掘立小屋に住んでいた頃のことが描かれています。サイモンさんは、スプリングモントの丘から自転車を何キロも漕いでクレズウィックまで通い、ここのパブで物語を語ったり、民謡を歌ったりして暮らしました。

 この本を読んでいると、ちょっと前までのオーストラリアの暮らしがいかに貧しく、生活も簡素だったことに驚かされます。100年前、人々は定住した土地を出ていくことはあまりありませんでした。夜は暗く、冬は寒く、怪我や病気で人はあっけなく死んでいきました。お金を稼ぐことは、クレズウィックのような田舎では至難の技で、貧乏人の子沢山が家を建てようなどと考えてもその方法はなく、せいぜい廃坑に潜り込んで金を漁るとか、そんな方法しかなかったのです。サイモンさんの伝記にもそんな昔の様子がたくさん描かれています。

 では、そんな生活が不幸だったかというと決してそんなことはありませんでした。サイモンさんも、寒風に吹かれて収穫したジャガイモを大鍋で茹でて食べたのがどれほどおいしかったかとか、採れたてのレモンで作ったレモネードがどんな甘露だったかとか、羊肉をトロトロになるまで煮込んで作ったシチューがどれほどリッチだったとか、パブから漂ってくるビールの香りがどれほど芳醇だったかとか、町の運動会がどれほど楽しかったかとか、読んでいると涙が出てくるようなことをたくさん話しています。サイモンさんの伝記を読んでいて、ずっと以前『遠野物語』を初めて読んだときのような、人恋しさや懐かしさをまた体験しました。

 サイモンさんは有名な詩人でも何でもありません。ただの貧乏な吟遊詩人です。想像するに、20世紀半ばくらいまでこんな人がオーストラリアの田舎町には必ず一人や二人いたのでしょう。サイモンさんは、クレズウィック周辺をとぼとぼ歩き、自転車で行き来し、ジャガイモを掘ったりリンゴを収穫したりし、週末はパブで民謡を歌って一生を終えました。サイモンさんの葬儀には町中の人が何百人もやってきて彼を慕んだそうです。そんな人生こそ一遍の物語、フォークロアのようです。


 このようなオーストラリアの古い物語は、反省点の多い植民地主義のオーストラリア史が背景にあることや、文章にも差別的な表現が出てくるので、かえりみられることが少なくなりました。でも、読んでみるとなかなかのもので、このような珠玉の物語がまだまだたくさん埋れている気がします。

 僕もスプリングモントの丘に立ってみました。今だって何もない場所で、見渡す限りの牧場の、その草の間をただ風が吹き抜けていくのでした。



スプリングモントの丘から

 
 
 

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