山形県最上川サイクリング (その1) 一日目、上野から米沢、寒河江まで(走行距離66キロ)
- 鉄太 渡辺
- Jul 26, 2022
- 14 min read
2022/07/26

還暦サイクリングの冒険に出発だ!
3、4年前だったろうか、T村が「今度は、ぜひ最上川へ行こうぜ!」と提案した。私は二つ返事で、「最上川か、面白そうだ!よし、行こう!」と答えたが、コロナ禍が間に入ったりして、私がなかなか日本に帰国できなくなり、その計画はなかなか実行されなかった。私はメルボルンでジリジリしながら、そのチャンスが到来するのを待っていたわけだ。そして、この度2022年6月、やっと帰国が叶って、とうとう最上川下りの自転車ツアーに行く時がやってきた。
私とT村は、中学高校時代から大学時代卒業くらいまで、長期休暇には必ずと言って良いほど、二人して日本各地を自転車で旅した。二人の初めての本格サイクリングは、前にも書いたが、夏休みに沼津の中学校K学園の寮から東京(T村は神奈川)の実家まで130キロを走って帰宅した時だ。その時の担任がまだ若かりしT屋先生その人であった。以降、T村と私は箱根、御殿場をくまなく走り、奥多摩、丹沢、奥武蔵も制覇し、木曽路や飛騨を走り、甲府から信濃にかけても足を伸ばした。そして高校一年の夏休みは、北海道一周をした。

振り返ってみると、その北海道一周が私たちの青春時代における自転車旅行の一つの頂点だったかもしれない。大袈裟かもしれないが、北海道一周をして私たちは「男になった」のだ(童貞を捨てたとか、そういう意味ではない。)その一つとして、私たちは、その旅行のために生まれて初めてバイト(T村は八百屋、私はお好み焼き屋)をし、その金を郵便局に預け、北海道各地の郵便局で預金をおろしながら旅をした。神社や公園で野宿をし、生まれて初めて知らない人の家に泊めてもらったりもした。隠れてビールも飲んだし、タバコを吸ったり、財布を落としたり、走り疲れてヒッチハイクしたりもした。毎日100キロ走り、昼飯には、カツ丼とタヌキ蕎麦とか、二品注文してペロッと平らげた。そんな旅の前と後では、私は少しは違った人間になったような気がする。そんな大冒険は、大人になっていくイニシエーション(通過儀礼)のひとつだったのかもしれない。
そんな私たちだが、大人になってからはさっぱり自転車旅行には行かなくなった。しかし、どこかにその火種が残っていたのだろう、50代も後半になった4、5前から、二人は自転車を新調し、またあちこち乗るようになった。T村と私は、去年と今年で還暦を迎えた。だから、今回の最上川四泊四日350キロの旅は、私たちの「冒険パート2」の幕開けとも言える。

上野駅から米沢まで輪行する
6月中旬、東京都が梅雨入り宣言をしたその翌日、私とT村は、東京上野のビジネスホテルで落ち合った。翌朝6時過ぎの山形新幹線で米沢まで輪行するためだ。若い頃は鈍行かせいぜい急行だったが、今回は行きは新幹線、帰りは飛行機で輪行だ。60歳なんだから、それくらい許してもらおう。
私たちの自転車は、すでに畳まれて袋に入ってホテルのロビーに置いてある。私は夕方上野入りをしたが、仕事を済ませたT村がホテルに姿を見せたのは夜10時だった。T村は横浜、私は今回の日本帰国では川崎の知人宅に滞在しているので、東京の反対側の上野まで、ラッシュの電車を避けて自転車を担いで行くのはなかなか大変だ。しかし、上野まで来ればもう大丈夫。新幹線の改札はビジホのすぐ前だ。と言うことは目的地の山形は、ほんの2時間先という訳だ。昔の人が、夜行列車で移動したことを考えれば何と便利になったことだろう。志賀直哉の『網走まで』という短編には昔の列車旅の様子がある。この小説は『網走まで』と言う題のくせに、上野から宇都宮までの話で終わっているから面白い。それくらい昔の旅は大変だったということかもしれない。
我々は、上野のビジホの狭い部屋で膝をくっつけ合いながら乾杯し、朝5時に起きるべくして、すぐに寝た。ところが、6月の朝は早い。寝たと思ったらすぐ朝だった。5時過ぎにロビーに降りると、T村も眠そうな顔ですぐ降りてきて、「いやー、あんまり寝れなかったぜ。でも、新幹線の中で寝ればいいやね」と言った。
上野から山形までの2時間、私たちは朝食のおにぎりを食べてうとうとした。福島くらいまでは景色も面白くない。ところが福島を出ると、目を覚ましたT村が俄然テンションを上げ始めた。「山形新幹線は、ここからは在来線の線路をゆっくり走るから、山の中でカーブが多くて蛇行するんだ。窓から先頭車両が見られるんだぞ。新幹線でもそんなのは山形新幹線だけだ!」と、窓に携帯電話を貼り付けて写真を撮っている。T村は仕事で日本の津々浦々を旅して回っているから、交通機関について詳しく、「撮り鉄」めいたことが大好きなのだ。
そうこうしているうちに、我々の降車する米沢についた。新幹線の旅は慌ただしい。まだ雨がしょぼしょぼ降っていたが、タクシー乗り場で自転車を組み立て終わる頃にはほとんど止んだ。売店でコーヒーを買うと、レジの女性が「さんびゃくえんです」と言う。その「びゃく」にアクセントがあるので、ああ、もうここは東北なんだなと感じ入る。

米沢から長井まで走り、蕎麦屋で昼食
雨はすっかり上がり、早速走り出す。雨上がりの濡れた道路は、自転車の乗り心地が柔らかなので好きだ。3、4キロも走ると町外れ、当たり一面まるで定規で引いて描いたような水田が続く。田植えがすっかり終わった田が、かなたで霞んでいる山裾まで続いている。我々は北に向かって鬼面川という名前ののどかな流沿いに走っていく。雲間からは青空が見え始めた。

鬼面川は最上川の支流だから、まもなく我々は最上川の本流にぶつかった。その二つの川がぶつかる橋のたもとで、T村は自転車を止めた。そして感無量の表情でこう演説した。「おお、最上川の本流よ、ついに俺は来たぞ!最上川は、高きから低きへ向かって229キロ流れて日本海に注ぐ。この川はそうやって何百年も、いや、きっと何千年もずっと日本海に向かって流れ続けてきた。水は、どうして流れる方向が分かるのか?水は、どんなにわずかでも低い方向へ流れ、澱むことはないのだ。偉大なる最上川が流れ続けたゆえに、広大な庄内平野が生まれた。地学的に考えてもすごいことだ!」
T村は、長年の夢だった最上川に来て、深く感動しているようだった。私は、そーか、これが最上川かくらいの気持ちで、T村ほどは感動してなかった。むしろT村が、水の流れる方向についてとりわけ感動している理由は、もしかしたら、彼が台所の流し台を売る仕事をしているせいかもしれないと気がついて、そんな自分の洞察力の深さに感動していたのだった。

そう言えばT村は、先々週静岡の大井川を下って牧之原台地に登った時も同じように感動していた。私は、その時も友の感動ぶりを決して軽視せずに温かく見守った。今日も私は、T村がひとしきり感動するにまかせておいた。案の定T村は、最上川に向かって感情のたかぶりを放出してしまうと、すっきりした顔つきになった。そこで、我々はまた走り出した。
しばらく行くと、またT村が大声を出した。「おお、見ろ、田んぼの中に大きな鶴みたいな白い鳥がいる!」私は、えっ、こんなところに鶴なんかいるかよ?と思って、T村が指差す方を見れば、その鳥とはシラサギであった。シラサギは、田んぼによくいる普通の鳥である。だが、確かにシラサギもこうやって見れば風情がなくもない。T村は、「あの鳥は、一反に一羽ずついるぞ」と観察めいたことを言った。確かにシラサギは群れてひと所に集まっているのではなく、一枚の田んぼに一羽と言った風に、混み合わないようにして立っている。鳥の癖にソーシャルディスタンシングを徹底しているのだ。そして、時々魚か虫を見つけると、バタバタ飛び上がって水の中に長い嘴を突き立てている。
T村は、このシラサギの生態に大いに感心し、ケータイを取り出して写真を撮った。T村は昔からサイクリングをしていると、道端で見かけた動物に妙に反応する癖があった。それは、彼が動物好きなせいもあるが、むしろ無意識のレベルで自分の波長と動物の波長が重なってしまうからのようだった。例えば、T村は動物の鳴き声を聞くと自動的に真似する癖があって、カラスが鳴けばカラスの鳴き声を真似し、犬が吠えれば、吠え声に負けないように自分も吠えてみせたりする。本人は無意識である。それを自転車で走りながら行うから、バス停の女子高生に聞かれたり、庭先の老人を驚愕させたりもする。いささか異常な行為だが、反面メリットもあって、意外なことにT村は音楽が得意なのだった。小さい頃からバイオリンをやっていて音感も鋭い。これは彼の動物的特性と関係があるのではないかと私は睨んでいる。とにかく、私はT村が突然動物の鳴き声を真似したりしたら、すぐさま車間距離をあけて他人の振りをしようと肝に銘じた。
最上川の流れと一緒に、私たちは眠たくなるような牧歌的な風景の中をどこまでも走っていた。私たちが走っている長井街道には並行して米坂線の線路が走っている。東京や神奈川だったら、どんな路線でも分刻みで電車が行ったり来たりしているものだが、私たちが並行して走っていた2時間ほどの間、列車を見かけたのはたった一度だけだった。
田舎を走っていると、問題は昼飯をどこで食べるかだ。上手にペース配分しないと昼飯時になっても、どこの町にも行きつかないことがある。昔から自転車旅行をしているが、昼飯を食べ損ねて行き倒れになりそうになったことが幾度もある。しかし、我々も今や還暦を迎えた分別盛りの大人だから、ちゃんとそこは計画的に走っているのだ。特にT村は、iPad一台と、加えて携帯電話を2台も持って完全武装で走っているから、情報収集には全く抜かりがない。止まるたびに「ちょっと待ってね」とこれらをポケットから取り出して確認している。確認が終わると、「大丈夫、大丈夫、この道で間違いなし。あと845メートル行くと、右側に道の駅があるから、そこで小休止だ」などと言う。T村は、全国津々浦々を行商する台所キャビネットのセールスマンであるから、こうした情報機器の取り扱いはゴルゴ13並みで、瞬時にどんな情報も取り出せる訓練ができている。
さて、そのときは昼前で、私たちはちょうど長井という町に入ったところだった。果たして845メートル走ると、右側に「川のみなと長井」という道の駅が現れた。我々はそこで休息をとり、お昼をどこで食べたら良いか情報収集をすることにした。
日本にいるといつも感心するのだが、道の駅に寄ると、大概どこも地元の農産物や魚や酒などあらゆる特産品を売販売している。また、それらを食べさせる食堂も整備されている。トイレはどこも清潔で文化的だ。ウオッシュレットの普及率は9割以上だろう。お役所とは言え、国土交通省も味なことをやってくれるものだ。これが私の住んでいるオーストラリアだと、全くそういう趣向はなくて、ドライブインと言っても、ガソリンスタンドとファーストフードの店が組み合わさっただけのものだ。地元の特産品を売っていることなどまずない。だからどこも皆同じで、シドニーだろうがメルボルンだろうがタスマニアだろうが、地域性はほとんどない。トイレなど、ここは本当に文明国なのか?と疑うような場所さえある。ウォッシュレットの普及率はといえば、ゼロだ。なぜか?ひとつには、ウォッシュレットにはボタンやダイヤルがたくさんついているが、こういうものを見ると、大概のオーストラリア人は拒否反応を示す。オーストラリアの人は、そういう小賢しいことは好まないというのだ。お尻を清潔にするのがどうして小賢しいのか私には理解できないが、その国にはその国の理屈があるのだから仕方がない。

山形名物納豆もち
話は横道に逸れたが、国土交通省は、道の駅のコンセプトを世界に輸出したらどうか?私は川のみなと長井の豊富な販売物に感動し、できればここに2、3日滞在して、売っている食べ物を全部試食してみたい衝動に駆られた。豊富な饅頭や和菓子などのオヤツ、地酒や各種フルーツ酒やワイン、野菜や果物、採れたてのサクランボ、お米(つや姫や、はえぬきと言った山形米)、納豆数十種類、そば、こんにゃくなど、そのバラエティは枚挙にいとまがない。私は、特に饅頭など甘いものが好きなのだが、今ここで饅頭を食べてしまうと、昼飯が食べられなくなるのでじっと我慢した。
T村は、川のみなと長井で休憩している間も、抜かりなく昼をどこで食べるか情報収集を行なったようで、「お昼は、この先の『あやめそば舟越』に決まりだ!ここは長井でもランキング第一位!」と宣言した。T村のケータイを見ると、驚いたことに長井の町だけで、十指に余る蕎麦屋のヒットが表示されている。しかもランキングまで出るとは。全く蕎麦屋をやるのも大変なご時世である。定年後に田舎でのんびり蕎麦でも打ちながら老後を過ごそうと思っても、そうは問屋が下さないのだ。
それはともかく、迂闊なことに実はこの時まで、T村も私も山形が蕎麦の名産地であることを知らなかったのだ。T村はそのことを知って、「この旅がさらに楽しくなってきたぞ。毎日昼飯は蕎麦屋だな!」と嬉しそうに言った。私も蕎麦には目がないので、毎日蕎麦で異存はない。
川のみなと長井を出た私とT村は、5分後にはあやめそば舟越にいた。T村のGoogleマップのおかげで、知らない町でも蕎麦屋へ直行が可能なのだ。その蕎麦は、期待に違わず美味であった。透き通るようなそばであるが、太くてブルブルして噛み応えがあって、強いコシのあるそばだった。山形の蕎麦は、東京や長野の蕎麦に比べるとぐんと力瘤がある、そんな味だった。ただ、失敗したのは二人ともお腹が空いていたので大盛を注文してしまったことだ。山形にはたくさん蕎麦屋があるのだから、一つの蕎麦屋で満腹になってしまうのはもったいなさすぎる。できれば昼飯は2回に分けて、二カ所の蕎麦屋で食べるようにするべきであった。

今日の目的地、寒河江まで
さて、午後も我々は最上川沿いに自転車を走らせた。これがまた、昼に食べた蕎麦と同じくらい素晴らしい道筋であった。長井からは、我々の本日の目的地の寒河江まではまだ45キロあるが、我々は川沿いに、なるべく交通量の少ない旧道を選んで走った。最上川で驚いたのは、その水量の豊かさだ。これは雪解けの水が豊富な北国の川に特有なことなのかもしれないが、この間走ってきた大井川は河川敷がやけに広かったのに対し、最上川は川幅のほとんどを水面が占めている。それはまるで、芭蕉が句に詠んだのと同じ風景だった。
五月雨を集めてはやし最上川
正岡子規も最上川の句を詠んでいる。
ずんずんと夏を流すや最上川
どちらの句も、最上川の水量が豊かなことを歌っている。子規の方は盛夏の句だが、私たちが眺めた6月の最上川の水量も、まさに「ずんずん」という擬態語が似合う迫力だった。また、最上川はくねくねと曲がり、そこに沿って走れば、いつも新しい景観が目前に開けるから、サイクリストにとっては楽園のような道だった。
私とT村は、そんな流れを楽しみながら走り、いつの間にか寒河江の町に近づいていた。私は生まれて初めて寒河江に来たが、実はこのあたりには少しばかり縁がある。私の亡くなった母は終戦後に山形で暮らしたことがあり、妻のチャコも幼い一時期を山形と寒河江で暮らしている。偶然だが、私の母と妻は、30年近くを隔ててだが、山形で同じ中学校へ通っていた。だから、私には山形や寒河江はどこか親しみを感じる場所なのであって、偶然通り過ぎたのではなくて、何かの力に引き寄せられてきたような気がした。
しかし、チャコによれば寒河江はとても田舎で、引っ越してきた当初、彼女は寒河江の方言がちっとも理解できずに困ったという。そんなエピソードを聞いていたから、私は寒河江が日本の中でも最も山深い町のひとつであり、冬は長くて暗く、後進的で保守的な、言ってみれば「暗黒の地」としてのイメージを抱いていた。
ところが、来てみると大違いで、寒河江に近づくにつれて、私のこの長年抱いてきた負のイメージは大きな音を立てて崩れていった。私の目前にある寒河江は、最上川を抱く明るく美しい町だった。米沢平野に位置する寒河江は、背後に月山や朝日岳を背負い、東には山形市を望み、その向こうには蔵王が眩く光る緑の町だった。私は、寒河江の町を眺めた途端、その明るさに、思わず「ほう!」という驚きの声を漏らしてしまったくらいだ。
町に入ってみると、どこを見渡しても、今まさに取り入れを迎えたサクランボの果樹園が広がっている。その周囲には田植えが終わったばかりの田んぼが見渡す限り広がっている。大袈裟だが、桃源郷のように見えた。
私とT村は、そんな美しい寒河江の町外れにある、その名もチェリーパークホテルという、なかなか立派なホテルに乗り入れたのだった。我々の今夜の宿だ。このホテルは、町外れにあるにしてはたくさん人がいて、コロナ禍にあるとは思えないくらいだった。それもそのはず、ホテルの隣が大きな公衆温泉浴場になっているせいだった。
私たちも、チェックインすると、すぐさま汗を流すべく温泉に入った。湯は硫黄の匂いが強烈だったが、湯は熱く透明度が高く、骨の髄まで染みこむような湯だった。
夜は、また蕎麦屋だった。蕎麦屋と言っても焼肉屋を兼ねている不思議な店だった。私たちは、山形へ来たことだし、山形牛の盛り合わせの焼き肉を注文したが、二人分とは思えない山盛りでびっくりした。私はオーストラリアに住んではいるが、実はそんなに肉は食べない。「いやあ、こりゃあびっくりした」と言いながら、二人はじゅうじゅう肉を焼いて、その山盛り肉を食べてしまった。T村は、それでも物足りなかったと見えて、「お姉さんさあ、半分の量でいいから、〆に冷たいお蕎麦を頂戴!」などとお調子者のところを見せた。ところがその蕎麦も、半人前とは思えないほどの量で、「えっ、これが半人前?」と流石のT村もひるんだくらいだった。
たいへん素晴らしい夕食だったが、宿に帰ってから私は焼肉の食べ過ぎで、お腹がゴロゴロになってしまった。その反対に、T村は便秘になった。同じものを食べて逆の結果になるのはどう言う訳だろう?
とにかく、それが私たちの山形最上川サイクリングの一日目だった。もう若くはないのだから、食べ過ぎには注意しなければならないというのが、本日の教訓だ。
(二日目「寒河江から尾花沢まで」に続く)
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