奄美大島を巡った自転車旅(旅行二日目、大和村から古仁屋まで80キロ)
- 鉄太 渡辺
- Feb 25, 2023
- 17 min read
2023/02/25
東シナ海とは、中国本土と九州、南西諸島・台湾との間にある縁海。黄海とは揚子江河口と済州島とを結ぶ線によって区分される。中国側に大陸棚がひろがり、トロール・底引網漁業の好漁場として知られる。中国では東海と呼ばれる。
(日本国語大辞典)
1.東シナ海の波濤を聞きながら
奄美大島旅行の一晩目は、東シナ海に面した大和村のSビーチと言う民宿に泊まった。大和村は数軒の民家が猫の額のような海岸にへばりつくように集まっている静かな集落だ。その白い海岸は美しく、海は青いけれども、今日そこから見える海は大きくて荒々しく、目と鼻のすぐ先で、でっかい荒波が砕け散っている。

民宿Sビーチの女将さんは、T村と私より少し年上らしい気さくな人だった。「さっき午後に、名瀬の方に出かけた息子が電話してきてさ、町の手前であんたたちとすれ違ったって言ってたよ。自転車で峠を苦しそうに登ってるってさ。」
「うへー、カッコ悪いところを見られちゃったな。でも、どうして私たちが今夜のお客ってわかったんです?」T村が怪訝そうな顔で聞いた。
「だって、自転車で旅行している人なんてそう多くないだろ、あっはっは!」と女将さん。「私も、もう少し若い頃は、マラソンとかトライアスロンなんかに出てたのよ。だから自転車が大好きなんだ」と、そう付け加えた。
「へぇー、トライアスロン?」と私とT村は顔を見合わせた。目の前にいる60代後半と思われる女性とトライアスロンが結びつかない。だが、言われてみると、背筋がビシッとまっすぐな立ち姿は、確かに元アスリートと言う感じだ。
夕食は、新鮮な魚と伊勢海老が入った豪勢な鍋だった。加えて女将さんは、「ついでに食べておくれ」と、おでんも出してくれた。どちらもとびきりうまくて、T村も私も、腹がはち切れるほど食べた。
お腹いっぱいご飯を食べたら瞼がくっつきそうに眠くなった。昨夜は羽田のビジネスホテルでろくに寝てないし、今日は、雨風の中を午後から50キロ走ってきたのだから。
ところが、ここの女将さん、大の話好きときて、食事の片付けをしながら自分の人生についてとくと話し始めた。料理人だったご主人と渡米し、キャンザスシティやサウスキャロライナなどの北米各地、それから東南アジアで暮らし、沖縄でも仕事をして、最後は二人の生まれ故郷の奄美に戻ってきて民宿を始めたのだそうだ。ここの建物もご主人が建てたのだそうだ。そのご主人も数年前に亡くなったと聞いたが、今も息子さんと民宿を経営し、世界各地から来るお客さんとの出会いを楽しんでいるそうだ。まるで人生ゲームみたいな話で、我々は、疲れているのも忘れて女将さんの話に聞き入ってしまった。
2。鶏飯パワーで始まった1日

二日目の朝、東シナ海はだいぶ静かになっていた。空はまだ曇っているが、だんだん天候も回復してくるはずだと、T村はiPhoneの画面を見て言った。
民宿の朝ごはんは、一体何が出てくるのか楽しみだ。Sビーチの朝ごはんは、奄美名物鶏飯(けいはん)だった。鶏飯というのは、鳥肉でスープを作り、その鶏肉を笹掻きにしたものと、錦糸卵、椎茸、ネギ、紅生姜なんかをご飯に載せ、最後にスープを回しがけして食べるものだ。言ってみれば鳥スープご飯である。鶏飯は以前にどこかで食べたことがあったが、感想は「美味しいけど、特に大したことない食べ物だな」であった。しかし、実際に奄美まで来て、東シナ海を見ながら奄美美人の女将さんに給仕をされながら食べる鶏飯は全く別物であった。これが鶏飯だ、悪いか!という立派な味わいだ。何が違うのか。スープか、鶏肉か、ご飯か、そこは分からないが、インパクトのある、しっかりと地に足がついた味わいだった。

我々は、鶏飯に大満足し、「さて、そろそろ出発しましょうか」と腰をあげかけたが、その時、「こんにちは」とガラガラ引き戸を開けて入ってきたのは、日に焼けた顔のニコニコおじさんだった。見たところ漁師か農家のおじさんという風だ。「自転車で走ってるって聞いたもんで、ちょっと会いにきたんだ」と、おじさんは言った。
そこで我々はまた腰を下ろし、しばらくそのおじさんと話をした。聞けば、女将さんの小学校の同級生で、近所に住んでいるらしい。珍しいお客が来たと聞くと会いに来るらしいが、それは美人後家の女将さんに会いに来る口実だろう。ともかく、こうして地元の人と話をするのも味があるものだから、このおじさんとしばし茶飲み話をする。おじさんも若い頃は自転車やバイクであちこち旅行したと、そんな話だった。
話は尽きなかったが、「さて、本当にそろそろ出発しないと、今日の目的地に着かないよ」とT村は宣言した。今日の我々の目的地は、奄美の西の果て、古仁屋の港町だ。そこまでは海岸線を80キロ走る長丁場で、しかも峠をいくつも越える。宿の前で女将さんとその息子と記念写真を撮り、我々は颯爽と古仁屋に向かってペダルを漕いだ。

3.島巡りは、順打ちか逆打ちか?
さて、話は横にずれるが、島を巡るときは、「順打ち」か「逆打ち」かと言う問題がある。すなわち、時計回りか、あるいは逆時計回りかだ。例えば、四国お遍路八十八カ所を回る場合は、1番、2番と番号順に回るのが順打ちで、88番から87番と逆に行くのが逆打ちだ。逆打ちは3倍のご利益があると言われているが、その方が難易度が高いかららしい。弘法大師は順打ちに回ったので、逆打ちで回ると弘法大師に出会う確率も増えると言うこともあるようだ。
たまたまだが、私が四国を一周した時も順打ち、小豆島を回った時も順打ちだった。そのせいか、私的には、「島巡りは順打ち」と言う公式がある。もう一つ順打ちが良い理由は、日本は左側通行だから、時計回りだと常に海側を走れるメリットもある。

ところが、奄美の地理に詳しい人はすでにお気づきかもしれないが、今回我々の奄美巡りは逆打ちなのだ。最初は順打ちで計画したのだが、最後になって逆打ちになった。T村によれば、奄美は田舎で町が少なく、あまり宿泊地の選択余地がない。だから我々の体力と走れる距離を考慮すると、順打ちより逆打ちの方が効率良く回れると言う話だった。彼の作戦は、体力がたくさんある初日と二日目は、男らしくガンガン走って距離を稼ぎ、疲れてきた三日目と四日目は距離を少なくして無理なく旅を終える、というものだった。そうするには逆打ちが断然有利だと言う。そもそも私は、下調べも何もしてなかったから、「そうなの?じゃあ、そうしましょう」と安易にこの案を受け入れた。
その逆打ち奄美巡り案が、果たして正しかったか正しくなかったか、それは本日の走行80キロの結果にかかっていると言っても過言ではない。
4.次から次へと押し寄せる峠越え
大和村を出て走ること30分、人気のない海沿いの道端に、縄文時代のような高床式藁葺き屋根の建物が現れた。これは奄美特有の群倉(ぼれぐら)と言う建築だった。考古学専攻のT村は、すぐに興味を示し、「おや、これは珍しい納屋だ。昔は、これに穀物などを貯蔵したが、台風の時は破壊を免れるために即座にこの納屋は分解することができるのだ」と解説してくれた。さすがK大学考古学科卒だ。しかし、分解すると中に入っていた穀物はどうなるのか?T村は、そこまでは説明してくれなかった。彼の知識にも限りがあるのであろう。

群倉を眺めていたら、また雨がポツリポツリと降り始めた。悪いことに、この先は急な峠道だ。我々は「今日も雨とは難儀だが、まあ、ゆっくり行きましょう」と、しぶしぶ坂を登った。見上げると、山の頂上に電信柱と電線が見えるが、あの辺りの標高は200か300メートルだろう。10%の勾配だと100メートルごとに10メートル登るわけだから、標高300メートルだとしたら3キロも坂を登らなければならない。自転車で走っていると他に考えることもないから、こういう暗算に長けてくる。
二人は、汗をかきかき峠を登り切った。するとそこにはヤギ牧場があった。奄美大島にはヤギが似合う気がする。私たちは汗がひくのを待つ間、ヤギを眺めた。ヤギたちも我々を眺めた。ヤギばかり見ていても仕方がないので景色も眺める。奄美の原始林は木の影が濃い。四方を海に囲まれ、湿度が高いからだろう。森にはびっしりと、人が歩く隙間もないくらい樹木が茂っている。こんな山で遭難したら、まずは生きて帰れない。

しばらくそんな景色に見惚れてから、峠を下った。もう雨は止んでいたが、道路はまだ濡れているのでスピードは出せない。
大小の峠が続く。奄美の海岸線は入り組んでいるので、海岸があるかと思うと、半島があって坂がある。あまりにも峠が険しいようなところには、トンネルが掘られていて、峠を越えなくとも反対側に出られる。トンネルをくぐるのは暗いし狭いし、車が来ると危ないから心地の良いものではない。しかし、これだけ峠が多いと、トンネルも段々ありがたく思えてくる。昨日の敵が、今日は味方についてくれた感じだ。
奥浜という何もない海岸で一息ついていたら、大和村の方から来た自動車がプップーと警笛を鳴らして通り過ぎた。見れば、昨夜の宿の女将さんだった。今日は日曜日で、この先の奄美フォレストポリスという森林公園でウォーキングのイベントがあると言っていた。その辺りにはマテリヤの滝という名所もあるらしい。寄り道してその滝を見に行きたい気もしたが、そのためにはまた余計な山越えをしなくてはならないから、我々は簡単にあきらめた。こういう寄り道がそう簡単にはできないところが自転車旅の短所だ。
5.急坂は押して登る決断をした私
坂を登り、そして降る、この動作を繰り返しながら、私とT村は海岸線を走っていった。島を一周すれば、最初にスタートしたところへ戻る訳だが、論理的に考えると、時計回りだろうが逆時計回りだろうが、同じだけ坂を登って、同じだけ下るはずで、どっちから回っても使う体力は変わらないはず。これをエネルギー無限の法則の一例として考えるならば、島を一周すれば、坂を登るために消費したのと同じだけのエネルギーを、下りで得られるはずだ。だとすると、島を一周しても全く疲れないはずではないのか?
ところが、そんなことは現実にはあり得ない。実際一日自転車で走れば、私はくたくたに疲れる。なぜか?その理由は、そもそも、自転車を平地で動かすためにも労力が必要だし、自転車の各部が摩擦して力を奪うから、労力が余計に失われる。さらに逆風が吹くこともある。加えて、坂を下るときでもスピードが出過ぎないようにブレーキをかけるが、これだけでも相当なエネルギーが消費される。
私は、実は坂を下っている間にこの一連の考察を行っている。時間にしたらほんの2、3分だ。それほど短い時間にこんな高等なことを考えるなんて、もし私がこのままずっと自転車で走っていたら、もしかしたらアインシュタインかエディソンか平賀源内のようになれるかもしれない(いや、無理だろう)。

やがて我々は、本日最強の峠に差しかかった。名瀬瀬戸内線という県道が、今里という東シナ海側の集落から、宇検という太平洋側の集落に抜ける箇所にまたがっている尾根道だ。我々は、Googleマップでこういう箇所は全て事前におさらいしてある。その上T村は、等高線や勾配までがもっと詳しく表記できる地図アプリをiPhoneに忍ばせてあるので、随所で私にそれを見せたがるのだ。急坂の手前にくると、T村は自転車を停めてiPhoneを取り出し、こんなことを言う。
「ねえ、ちょっとこのアプリ見て見て!ここの坂を登っていくとね、こうやってだんだん勾配がキツくなっていくんだよね、わかる?それで、こうやってぎゅーっと坂がきつくなっていって、最後はガーンとここで終わるわけ。この登りは4キロあるから、勾配が10%として、45分かかるかなあ。うわー、きついぜ、こりゃあ!」と、まるで地理の授業で研究発表をしている中学生だ。私は友達思いの紳士であるからして、「ほー、全く便利なアプリだねぇ!なるほど、なるほどなるほどー!」と、いかにも感心したふりをして、彼を喜ばしてあげるのが常だった。考え方の違いだと思うが、この先どんな苦難が待っているか、あらかじめ先に知ってしまうのは、必ずしも楽しくないのではないか?と私は思わなくもない。
その長い峠道を登りながら、私はある決断をした。もう私は若くはない、だから、苦しい時はためらわずに自転車から降りて押そう、と。私の長い自転車人生の中で、こんな決断をしたのは初めてのことだった。私は、これまで、もっとずっと長くて急な坂だって登ってきた。箱根や富士山周辺、甲州街道や木曽路、八ヶ岳横断道路や野麦峠などなど。若い頃は、それがどんなに長い峠でも、どれほど重い荷物を自転車に積んでいても、あのカーブを越えれば喜びが待っている、峠には涼風が吹いていると希望を抱き、お尻をふりふりペダルを漕ぎ続けてきた。
しかし、もう過去の栄光にしがみついて生きる人生には別れを告げようとこの瞬間思った。坂が辛くて何が悪い、私は意を決してT村にこう言った。
「俺は、もうきつい坂は降りて押すことにしたからね。」
私はその時、何らかの抗議をT村から受けるのではないかと懸念したのだが、驚いたことに、彼はあっさりと同意した。
「はいよ、俺もそうするわ。」
T村は、そんな風に、案外物事にこだわらない性格の人間だったのだ。
そこで我々は、すぐさま自転車から降りて押して歩いた。もちろん乗れるところは乗って走ったが、きつい登りでは迷わず押して歩いて峠を越えたのだった。実際、押して歩いても時間はあまり変わらなかった。そして、それは思いの他爽やかな経験だった。人間は、自尊心なんか捨ててしまう方がずっと気楽に生きられる。これからの人生が、あとどれくらいあるか分からないが、私はこうして、T村のように物事にこだわらず、どんどん身軽になって生きていこうと決心した。

6.芦検の港で食べたおにぎりと缶コーヒーの美味
峠からは、長くてまっすぐな坂を私たちは滑るように降りた。すると湖のように静かな内海に面した宇検と言う集落についた。そこまで来ると、峠を越えた安堵感も加わって、突如コーヒーが飲みたくなった。その旨をT村に伝えると「俺も飲みたい!」と言って、ポケットからiPhoneを取り出し、パンパーンと伊勢よくこの近隣のコーヒー屋を探した。30秒後には「えーっと、この先4キロほど行った芦検にカフェがありまーす!」と嬉しそうに宣言した。
さらにT村は、そのカフェに電話をして営業中かどうか問い合わせた。「すみませーん、通りがかりの者なんですが、実は自転車で旅をしておりましてぇ、それでコーヒーが突然飲みたくなりましてぇ電話をしてるんですけどぉ、えーと、お宅は営業中かどうか知りたいと思いましてぇー…」
次の瞬間、T村の顔が曇った。
「え、今はやってない?なに、3月にならないとお客が来ないから?本当ですか?だってまだ1月ですよ。参ったなー、で、ここらに他に喫茶店ってある?え、ない?まじ?古仁屋まで行けばコンビニがある?ああ、そうですか、じゃあ、仕方がない、失礼しましたぁ!」
仕方がないから我々は、4キロ先の芦検まで走り、ここで大休止した。日曜ということもあって村の商店も閉まっている。大体、今朝出発して以来、開いていた商店は一軒もなかった。というか、商店なんて一軒もなかった。奄美の東シナ海側はひなびていると聞いてはいたが、これほどとは驚きだ。
仕方がないので、港で釣りをしているおじさんたちを眺めながら、自販機の缶コーヒーを飲みつつ、宿のおばさんが作ってくれた大きなおにぎりをパクついた。お腹が空いていたので、大きなおにぎりはとてもおいしかった。サイクリングをしていると、時折おにぎりを貰うことがあるが、そういうおにぎりには善意がこもっているから、その分美味しい。自販機のコーヒーも普段はまず飲まないが、こうした非常時の暖かい缶コーヒーは案外悪くない。私は一本だけでは足りず、二本飲んだ。


7.島唄の響く夜と、地の果てのコインランドリー
芦検でお昼を食べた後、私とT村は小さな峠越えをもう2、3した。一つ一つの峠の標高はせいぜい2、300メートルだが、一つ超えるとまた一つあり、いささかうんざりしつつも6つ以上の峠を越えただろう。だから、夕暮れ間近の古仁屋の港町にたどり着いた時は、二人はヘトヘトだった。
私たちは、港近くのビジネスホテルに荷を解いた。夕食は、フロントの兄ちゃんが推薦してくれたRという島料理の店に繰り出した。7時の予約だったが、我々が入ったら小さな店は満席になった。この様子だと料理が出てくるまで待たされるかなと思ったが、要らぬ心配で、頼んだ料理はポンポーンとすぐに出てきた。やる気に満ちあふれた店なのだ。T村は、奄美に来たらこれを飲まないと話にならない黒糖焼酎のロックを注文し、酒が飲めない私はこの店特製きんかんジュースにした。ジュースというのは、甘ったるいだけのことも多いが、ここのきんかんジュースは、めっぽう美味かった。
料理も絶品だった。古仁屋の近くではマグロの養殖をやっているという話で、マグロをはじめとした近海魚の刺身盛り合わせ、モズクや地元野菜の天ぷら、ゴーヤチャンプルーに油ソーメン(ソーメンの焼きそば)など。私は、モズクの天ぷらというものを初めて食べたが、本当に美味しいものだ。ここら辺では、天ぷらはタレでなくて、塩で食べる。しかも、すぐそこの海の塩である。これが体に良くないわけがない。どこか遠くへ来て、こうやって地元の素材で作った美味しいものを食べさせてもらうと、心底幸せになれる。また、これだけの店となると、店をやっている女性たちも美人ばかりであることは言うまでもない。見て良し、飲んで良し、食べて良しだ。

我々が「うまい、うまい」を連発しながら食べていたら、横の座敷で宴会をしていたグループの男性が三線で歌い出した。地元では知られた歌い手らしい。「えーと、奄美の島唄は沖縄の島唄とは音階も歌詞もちょっと違っているのです。まあ、聞いてみてください」と男は言った。
そして歌い出したが、なんと言うか、男と女がお互いを誘い合っているような、万葉集のようなロマンチックな歌詞だった。沖縄の島唄とは違って、なるほど少し物悲しさがある。それは良いのだが、この歌い手の声がデカくて、店中がビリビリ震えるくらいだ。いくら素敵な歌詞でも、こんな声で誘われたら女性は逃げだすかもしれない。でも、よくよく考えてみると、昔は、電話もなかっただろうし、海の向こうで船に乗っている女性なんかをナンパするんだったら、これくらいの大声じゃないと聞こえなかったかも。だから、本来セレナーデというものは、これくらいの大声で歌うものだったかも。男は、島唄のサビの部分はヨーデルのような裏声のファルセット・ボイスで歌うのが特徴だと説明した。そして、歌ってみせたのだが、それは、まるでフレディー・マーキュリーが痔になって、トイレで叫んでいるような声だった。あまりすごい声だったので、私たちの隣で静かにちびちび飲んでいた一人旅の女性は、びっくりして店を出て行ってしまったくらいだ。私たちも、腹もいっぱいだし、これ以上いると難聴になりそうだったので店を出た。
そうだ、私たちにはもう一つやることがあった。洗濯である。ここでも用意の良いT村は、すでにコインランドリーの場所もGoogleで探していたから、私たちはそのまま洗濯袋を下げて古仁屋でたった一軒のコインランドリーまで、暗い夜道を歩いた。東京あたりのコインランドリーはこの頃とてもおしゃれで、素敵なソファーが置いてあったり、エスプレッソが飲めたり、Wi-Fiが使い放題だったりして居心地が良い。そんなコインランドリーがこの古仁屋にもあるかもしれないと、私は密かに期待を抱いた。
ところが古仁屋のコインランドリーは、全くその期待を裏切った。その建物は、解体屋が仕事を半分で投げ出したような状態で、その廃屋の持ち主は、サラ金の借金を払うために、とにかく中古の洗濯機をかき集めて置いてみた、そんな様子の店だった。以前は食べ物屋だったと思われる店舗で、べっとりと油じみた換気扇が壁にはまったまま、汚いタイルの壁は崩れ落ち、コンクリーの床は埃だらけ、部屋の隅には、忘れ物ともゴミとも分からないビニール袋が積んである。
しかし、古仁屋のランドリーはここだけだ。他に選択肢はない。我々は汚い洗濯機に洗濯物を入れ、恐る恐る100円硬貨を入れてみた。すると奇跡のように洗濯機は回り始めた。洗濯にはしばらく時間がかかる。私は一旦ホテルに帰ろうと言ったのだが、T村は「こんなランドリーに服を置いて行くと何があるか分からない」と心配した。そこでT村と私は、破れて詰め物が飛び出している汚いソファーに座り、小一時間、洗濯機と乾燥機がぐるぐる回るのを眺めた。その間、私は誰かが置いて行った新興宗教のチラシを読んで時間を潰した。


そんな恐ろしげなコインランドリーだったが、洗濯物には何も異変は起こらなかった。それどころか、洗って乾燥したばかりの洗濯物はふわふわで暖かだった。「終わりよければすべてよし」と言うことの好例かもしれない。
「今日は、峠越えがいくつかあって大変だったけど、そう言う難所を先に越えてしまったのは正解だったよな。明日からは、うんと楽だぜ」と、T村はホテルに戻りながら言った。確かに、旅の後半になってから、あの峠越えをするのは荷が重たかったかもしれない。なかなか歯応えのある一日だったが、ずしんとした達成感もある。やはり、奄美巡りは逆打ちで良かったのだ。T村の事前調査は、今回もなかなか的を得ていたと言えるだろう。
私とT村は、静かで真っ暗な路地を、清潔な明るいビジネスホテルへと戻った。
(二日目終わり、三日目に続く)




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