四国サイクリング旅行(その4) 12月1日 サイクリング5日
- 鉄太 渡辺
- Jan 12, 2017
- 13 min read
12月1日 サイクリング5日目: なぜ、私は足摺岬に向かったか?
四万十市中村から足摺岬、その西の竜串(たつくし)まで: 走行距離78キロ、

足摺岬でセルフィーする僕
朝5時半に、目覚まし時計の音で目覚めた。起きた瞬間、どこにいるのか分からなくて慌てるが、すぐ四万十市中村のビジネスホテルであることが判明して安堵する。毎日移動していると、こういうことがある。
目覚めたが、体が重たい。疲れがとれていない。昨日から痛くなってきたお尻も痛いし、太ももの筋肉もまだ腫れている。昨日上機嫌で四万十川沿いに100キロも走ってしまった報いだ。出発前メルボルンで走り込んできたから、自分が1日で走れる距離が100キロ程度というのは分かっていたが、毎日走り続けると、どれくらい疲れるかまでは分かっていなかった。
実は、出発前に主治医のマイケルにサイクリング旅行のことを相談した。自分もサイクリストであるマイケルは、「だーいじょうぶ、全然だいじょうぶ、100キロくらいは楽勝!」と僕の健康には太鼓判を押してくれた。彼はアスリート的な体格で、 日曜日に200キロ走っても、月曜日は涼しい顔で診察室に座っている強者だ。一つ忘れたのは、お尻の相談をすることだった。僕はお尻に爆弾を抱えていると言っても過言ではない。
もう3年前になるが、実はヨーロッパ旅行に行く一週間前に(詳しい描写は読者の恐怖心を煽るだけなので控えるが)人生最悪の痔の発症に襲われた。家族も楽しみにしていたので旅行はキャンセルしなかったが、旅の間中ドーナツ座布団の上で過ごすことを余儀無くされた。今回もまたあの激痛に襲われたら、もはや手の打ちようはなく、即刻この旅は中止だろう。だから用心して、サドルの真ん中がお尻に当たらない、真ん中にスエズ運河のような割れ目のある特殊なサドルをあつらえてきた。これは痔や前立腺に支障がある人(つまり私)のお尻に優しいサドルなのだ。しかし、今僕を襲っているお尻の痛みは、 中心部でなく、臀部の左側だ。サドルが当たるところが痛くなる、これは自明の理なので、こうなったら、だましだまし行くしかない。
太ももも心配だ。昨夜風呂でマッサージしたのに、まだかなり腫れている。大腿筋に乳酸のような疲労物質が溜まっているのだ。乳酸と言えばヤクルトの乳酸菌を連想するが、疲れた筋肉にたまる乳酸は厄介者だ。これもだましだまし行くしかない。
痛む体を起こし、ヨガをする。血行が良くなり、だいぶ気分も晴れる。何せ今日は、足摺岬を巡る1日で、旅の前半におけるクライマックスなのだ(後半のクライマックスは松山)。その事実を思い出してさらに元気になり、6時半にホテルを出発。
外は、まだ暗くて寒い。出ると、そこにローソンがある。ここで朝ご飯を食べる。多くのローソンにはイートインコーナーというのがあり、そこで座って食べられるから便利だ。この先、足摺岬までの間にローソンが何箇所あるか店員に尋ねると、少なくともあと二箇所はあると確約してくれた。足摺岬までは40キロ以上あるから、食料およびトイレがなくて遭難するのは困る。ローソンと自分の関係に関しては言うならば、両者の関係は思ったよりも深くなってきているが、このことは、オーストラリアに帰ってから改めてじっくりと自己批判することにした。これ以上自分に批判的になって、行動に支障をきたすといけない。
では、なぜ足摺岬が僕の旅にとって一つのクライマックスかと言うと、二つの文学作品に啓発されたせいだ。その一つは、 田宮虎彦作『足摺岬』である。田宮はこの作品で、人生とは暗くて、辛くて、悲しいものだが、その先には希望があることを書いている。僕は思春期にこの本を読んで感銘を受けたので、一度は足摺岬に立って みたかったのだ。そうやって、僕の 人生も希望に満ちたものであることを今一度確認したかった。とにかく、40年以上もそう思い続けて来て、その思いが成就されるのだから、今日は慶賀すべき日だ。

足摺岬にそびえ立つジョン万次郎像
さて、もう一つの作品は、井伏鱒二作『ジョン万次郎漂流記』 である。有名なジョンと言えば、横綱はジョン・レノンかも知れないが、個人的な順位では、ジョン万次郎が上かもしれない。ジョン万次郎、すなわち、中浜万次郎は、足摺岬近くの中浜の集落の出である。児童文学者トールキンではないが、 万次郎の人生は「行って帰ってくる物語」だ。彼は漁に出て嵐にあって漂流し、アメリカの捕鯨船に拾われてハワイに上陸する。、頭脳明晰だったので東海岸の名門アマーストカレッジにて学ぶ機会を得て、その後も測量士などをして働いたものの、10年後には捕鯨船で日本に帰ってきた。そして薩摩藩の英語教師や幕府の英語通訳(日米和親条約など)を務め、さらに咸臨丸に乗ってアメリカを再訪し、その後も政府にとって重要な役目を果たす。最後は東京開成学校(東大)の英語教授として教鞭をとった。もちろん、万次郎は、ただ行って帰ってきたのではなく、米国で全くの異次元体験をし、日本に帰ってからは大いなる貢献をした。その旅は、比較神話学者ジョセフ・キャンベルの提唱する「英雄の旅=ヒーローズジャーニー」ともいえる 。
ただ僕にとっての謎は、どうしてジョン万次郎は戻ってきたのか?ということである。望郷が定説にはなっているし、望郷の念が非常に強い思いであることは、20年間オーストラリアに住んでいる僕にはよく分かる。しかし、そのままアメリカにいたとしても万次郎は幸せな人生を送れたのではないか?測量技師の資格も取り、捕鯨船の副船長にもなって順調な人生を送っていたのだから。日本に戻る旅路は命がけであっただろうし、日本はまだ鎖国だったから、戻れば投獄されて死ぬ可能性もあった。なのになぜ戻ったか?
一方、ジョン・レノンにも謎がある。レノンがマーク・チャップマンに殺されたのは米政府の陰謀だったという説だ。レノンは、その平和運動ゆえ、ニクソンに嫌われ、FBIにも目の敵にされていたから、暗殺されもおかしくなかった。
このように、物事には、しばし裏がある。ミステリー小説の読みすぎかもしれないが、もしかしたら万次郎は、倒幕派である薩摩、長州、土佐藩などから送られた密使、すなわちスパイでなかったか?という仮説が立たないか?現に、彼は倒幕派土佐の人間だ。まあ、こういう駄説は横に置くにしても、僕は、万次郎が生まれ育ち、それほどの望郷の念に駆られたという彼の生地を一度見たいと思っていた。
そういうわけなので、四万十中村から足摺岬までの40キロの道程では、それなりの出来事があったのだが、間を飛ばして、足摺岬に立ったところから書く。途中の出来事とは、 全く波のない浜で波待ちをしているサーファー親父(津波を待っているのかよ?)を見て呆れたこと、道端で 穴子の干物を作っていた漁師に穴子漁について話を聞いたこと、ホームレスサイクリストのお遍路に会ったこと、三百円のアジ姿寿司を漁港の売店で食べて舌鼓を打ったことなどだ。
ついに足摺岬に立つ
足摺岬には昼頃たどり着いた。そこは、 陽光に満ちた、明るい場所であった。突端は、細くて切り立ち、その上に灯台がある。道理で自殺の名所だが、崖はそれほど高くないし、下はごつごつの岩場だから、落ちたらさぞ痛いだろう。
僕は自転車を留め、突端に向かった。しかし、その道は灯台のところで簡単に終わりになり、先へはいけない。仕方がないから後戻りし、見晴台から海を眺めた。青い空の下、どこまでも太平洋が続いている。


足摺岬の光景は、綺麗ではあったが、あっけなかった 。そっけない、愛想がない、 と言ってもいい。 40年も想像し続けて、やっとたどり着いたのに、そんな感覚だった。小説の舞台なんて、実際に来てみると案外そんなものだ。これは想像の世界がいかに豊かかと言うことの裏返しでもある。だから、落胆してはいけないのだ。想像し続けてきた 「足摺岬」に、実際の場所としての肉付けができた。それだけでいいではないか、来た甲斐はあった。
さっぱりとした気持ちで西に向かって走り出す。すぐに四国霊場38番目金剛福寺だ。横目で眺めて走り過ぎようとすると、バス停のお遍路がこちらに 手を振っている。見れば、高知のフェリーで同乗したお遍路おじさんだった。「やぁ、無事でしたか!」とおじさんは懐かしそうだ。 おじさんは歩きお遍路だったから、高知から足摺岬までも歩いているなら、すごい快速だ。自転車より早いから、忍者かもしれない。「随分 早く歩いてきたんですね!」と言うと、「バスと電車ですよ」と白状し、それから言った。「あなた、だいぶ顔に疲れが出てますよ。自転車で相当走ったんでしょう?無理しちゃダメだよ」。 嫌なことを言うジジイだ。しかし、顔に疲れが出ているとしたら、本当 疲れていることの証拠だから、この一言で意気消沈してしまった。参ったなあ、もう!
お遍路おじさんはバスで行ってしまったが、僕は、体に力が入らなくなり、時速5キロで、へーこら走り出した。少し走るとジョン万次郎の生地、中浜の集落だった。南に向いた明るい漁港だ。 狭い集落に入ると、万次郎の家はすぐ見つかったが、それは複製された、きれいすぎる漁師小屋であったから、かなりリアリティに欠けた。その両隣は普通の家が建っているから、その人たちは毎日中浜万次郎の生家を見ながら暮らしていることになる。それがどういう感覚なのか分からないが、有名な人物の生家の隣が自分の家であれば、それがそこで暮らす人の精神にいくばくかの影響を及ぼすのではないか 。ここからまた、万次郎のような偉人が輩出しないと、誰が断言できよう。

中浜万次郎生家
僕は、希望を抱いて中浜の集落を眺めた。温暖な、素晴らしい景色だ。干し柿がいたるところに干してあり、なだらかな山肌には、みかんの木がたくさん植わっている。ここなら、なるほど米国の一流大学に学んで将来が嘱望されたとしても、いつかは帰ってきたいと思うかもしれない。
さらに特筆すべきことは、集落に立ち込めるカツオ節の匂いだった。足摺岬周辺はカツオの漁場であり、 中浜もカツオ節の生産地で、 カツオ節工場がある。驚いたのは工場で働いている人に若者が何人もいることだった。ギャルと言ってもいいような女性たちもいた。昼時なので、カツオ節ギャルたちは、作業着を着て長靴を履いて、キャーキャー何事か話しながら、村の雑貨屋へ貧しい昼餉を求めに歩いていくのだった。

燦々と日を浴びて、美味しくなるカツオ節たち
それを見ながら、 日本の田舎の、四国最南端である足摺岬周辺には、カツオ節を作っているギャルたちがいる事実を、私たちはもっと深く受け止めなくてはいけないのではないか ?と感じた。農業好きギャルもトレンドらしいが、もしかしたらカツオ節ギャルがブレイクしないとも限らない。
中浜を出て先へ進む。空はどこまでも晴れ、海も穏やかだ。絶好のサイクリング日和であるが、疲れていることをお遍路おじさんにも見抜かれ、体に全然力が入らない。這うようにして足摺岬の根元にある土佐清水までたどり着く。黒磯魚市場という威勢の良いドライブインを見つけてそこでキビナゴ丼を食う。刺身のキビナゴが飯に乗っている丼だ。キビナゴというのは、小さいが油のある魚で、僕はこの唐揚げが大好きである。が、この丼はそれほど美味くはなかった。おまけに、団体客に囲まれて座ることになり、うるさくて閉口した。中でも、「お姉さん、ちょっとちょっと、キリンビールちょうだい、キリンね、超特急!」と叫ぶ親父がうるさくて、ビンタを張りたくなった。ウェイトレスは、「すみません、お客さん、うちはアサヒスーパードライなんです」と言うが、親父は「ええ、困るよ。俺はさぁ、キリンしか飲まないんだ。スーパードライしかないの?チェ、仕方ない、スーパードライちょうだい。超特急だよ」と横柄なのだ。 キリンだってアサヒだって同じだ、 黙ってアサヒを飲め!
もう土佐清水に泊まろうかと思い、細長い町を走ってみるが、場末の商人宿しか目に入らない。そういう宿の、日に焼けた茶色い畳の上で 過ごす午後を想像すると、もう二度と立ち直れないような絶望的な気持ちになる。 そこで地図を開くと、ここから先は足摺サニーロードと称される国道321号線だが、60キロほど先の宿毛まで町はない。小さな集落はいくつか在るが、宿がなかったら面倒だ。見れば、土佐清水を出た2、3キロ先に、ジョン万次郎記念館がある。ここを見学して、場合によったらまた土佐清水に戻ってきて泊まろうと、妥協案を考えた。
そこでジョン万次郎記念館まで行くが、あにはからんや、改修工事中で休館であった。万事休すだ。ここでジョン万次郎の謎も解明するかと思ったのに! 僕はジョン万次郎記念館の入り口前 に、がっくりと座り込んだ。このまま土佐清水に敗退か?
ふと見上げると、プレハブの建物があり、土佐清水市観光案内所とある。一抹の希望を感じ、ガラガラっと引き戸を開いて入る。すると、 中の市職員が、その音に驚き、「いらっしゃいませ!」と全員起立した。いたずらを発見された子供のような声だ。 きっとパソコンでゲームでもしていたのであろう。
「すみません、自転車旅行のものです。どこか泊まれる宿を探しているんだけど、今日は宿毛までは行けそうもないし、どっか近くに民宿かなんかないですかね? 」きっと僕の形相がものすごかったのであろう、職員の中でも比較的若く、美しいと言っても良い女性がカウンターまですっ飛んできた。田舎臭い職員の中でも、パッと見て、彼女だけは垢抜けている。きっと青山学院かなんか出ているに違いない。そして高知県公務員試験に合格したが、運悪く土佐清水観光課に勤務しているのだ。そうに違いない。
「ちょっとお待ちください、えーと、えーと、」とこの女性、地図と首っ引きで考えているが、良い考えが浮かばない。やっぱり東京出身のお嬢さまだ。すると、野良着を着せたら似合う感じの太った男が出てきて(高知大学農学部?)、 「そうやな、竜串なら南国ホテルがあるやか。おまん、めとろやね」と野蛮な言葉で助け舟を出す。それで女性は、顔色が明るくなり、「そうですね、竜串の南国さんがいいかもしれないですね。南国ホテルさんはどうでしょうか?」と、綺麗な日本語で一軒の宿を勧めてくれた。「ホテルなの?」と聞くと、「いえ、ホテルっていう名前ですが、民宿です。下に居酒屋もあるから、晩はそこでも食べられますよ」と言うのだった。
しかし、デタラメな情報である可能性もあるので、その場から南国ホテルに電話をしてみた。二食付きで八千円、ただし居酒屋は休業中ということだった。電話に出たおばさんは、晩を食べるなら今すぐお刺身を買いに出なければならないから、どうするかここで決めてくれと言う。僕は、「お刺身」と言う言葉に釣られて、泊まることに決めた。海辺の民宿で、美味しいお刺身を食べれば、元気になれそうな気がした。
「どうもありがとうございました」と、お礼を言って観光案内所を出る。 職員の人たちは安心して業務?に戻った気配だ。僕は、青学出身の彼女と、もっとこの辺りの旧跡名所のことや、彼女がどうしてここで働くに至ったかなどについて話していたい気もしたが、早く南国ホテルについて休みたい気持ちが優ったので、10キロ先の竜串へ進むことを決断した。

おすすめです! 竜串の南国ホテル
その南国ホテルだが、建物は三階建、部屋数も9部屋ほどあって、ホテルと呼びたい気持ちは分かったが、内容は民宿だった。親切なおばちゃんは80歳くらいで、 階段の上り下りなどはやや辛そうだった。館内には、漫画本がたくさんあったから、ここに幽閉されても退屈死はしないことが保証されていた。 洋式トイレは膝がつかえるほど狭かったが、お風呂にはケロヨンの桶があった。夕食の刺身はカツオで、豚バラ鍋と天ぷら、魚の煮付けもついており、美味しかった。「酔鯨」という、たくさん飲むと二日酔いになりそうな地酒も飲んだ。客は僕一人で、食べながらお給仕してくれたおばちゃんとの会話も弾んだ。

体の疲れは溜まっていたが、おばちゃんの夕食と和やかな会話のおかげで救われた。 お尻左側の痛みは、あまり悪化してなかったが、気がかりは気がかりだ。 太ももの腫れも少し収まったが、今度はふくらはぎが痛い。それに対しては何か処置が必要な気がしたので、明日は薬局に寄ることにした。
自転車のメーターを見ると、何のかんの言っても今日も78キロ走ってた。一心に走っても、だらだら走っても、案外結果は変わらないのかもしれない。しかし、気を抜いて走っているとトラックに轢かれたりするから、 明日も鋭意、安全運転で走ろうと心に決める。
明日の指針が決まったので、布団に入って目をつぶった。 さあ明日で高知は終わり、いよいよ愛媛県に入るのだ。
(四国サイクリング旅行(その4)終わり。文章を短く簡潔にまとめるのは難しいです。お付き合いくださり、感謝しています。また続きを書きます。)
Comentarios