伊東の隙間とタマの魂
- 鉄太 渡辺
- Feb 3
- 4 min read
2025/02/04
伊東には隙間がたくさんある。家と家の間、商店街のあちこち、隙間だらけだ。伊東は古い街で、まるで老人の口の歯の間のように、あちこちに隙間ができてしまっている。
隙間には物が置かれている。意図して置いてある物もあれば、吹き溜まりの落ち葉やゴミのように、いつの間にかそこに置き去りにされた物もある。それらの多くにはもはや命も魂も宿っていなくて、侘しくそこで朽ち果てている。

隙間の中には、子どもの通り道であったり、住民が近道に使っていたりするような、「優等生」の隙間もある。しかし、どちらも隙間であることには変わりない。私は、伊東にきてから、いつの間にかこういう隙間を覗き込むようになった。だから伊東の人たちは、私をかなり怪しい人間と思っているに間違いない。

一方普段暮らしているメルボルンには、伊東にあるような隙間はあまりない。なくはないが、シティのチャイナタウンにあるような古いビルとビルの間の空間とか、あるいはBrunswick とか Richmondなどの古い街並みの、裏庭と裏庭の間には隙間がある。でも、伊東で見るような、不思議な雰囲気の隙間はあまりない。ましてや、私の住んでいるベルグレーブのような、広くて明るい住宅地には、薄暗い隙間なんてほとんどない。
隙間は、狭くて、暗くて、湿っていて、ゴミが落ちていたりして、おいそれと足を踏み入れられるような空間ではない。薄気味悪くて、不思議で、何かの気配があるような非日常的な空間でもある。隙間は、境界とか結界とかの一種であるのかもしれない。結界とは聖と俗を分ける境のことで、神社に張られたしめ縄の内側などだ。もっと広くいえば、敷居とか襖とか障子とか、そういうものも含まれる。境界とは、内と外、生と死などを別つ一線のことだ。村外れに置かれた六地蔵とか、山の峠とか、切り通しとか、谷とか、川とか、人造のものも自然のものも、あらゆるものを含む。伊東のような古い街の隙間も、時間が経つとこの世とあの世を分つ境界に変異するのかもしれない。
昔から伝わる民話や神話、それに触発されて書かれた児童文学などには、そういう境界がたくさん登場する。タンスの奥、押し入れの中、夜中だけに開く扉、山姥の住む高い山、真っ暗な森などが結界として、境界として、異界への入り口として描かれている。

仏教でも何でも、人は死ぬとどこか別の世界、天国や極楽や地獄へ行くことになっている。だから、そういう場所と人間の住んでいる世界の境が、かつては生活の中に、日々の暮らしの中にあった。現在の私たちの生活はどうだろう?全くなくなったともいえないが、そういう境界は減り、縁遠くなり、あまり意味を持たなくなっている気がする。

私は4歳の時に、父方と母方の二人の祖父をほぼ同じ頃に亡くした。特に、私を可愛がってくれた母方の祖父の遺骸を見たことは、私に長いことトラウマとして残った。その時、死ぬということは、「魂が肉体を離れること」だと両親に教わった。だから、長いこと私の疑問は、肉体を離れた魂は、一体どこにどうやって行くんだろう?ということだった。今でもそれは疑問だ。
伊東に数多ある隙間を覗いていると、そこは魂の通り道であり、一時的な居場所であるような気配を感じる。私が買った家のすぐ下にある古い石段も、そんな空間の感じがする。ある晩遅く、この階段から人声がするので窓から覗いたら、若い女性が一人で階段に座り、私の知らない国の言葉で、携帯で誰かと低い声で話していた。それは、まるで巫女が異界にいる亡者と話しているようだった。

うちの飼い猫のタマが先週、二日間寝こんでからとうとう逝ってしまった。私は、その二日間、意識不明になっているタマが痙攣したり、苦しそうに鳴いたりするのを見ながら過した。18年も一緒に暮らした最愛の猫が死んでいくのを見るのは、とても辛いことだった。タマは、夜中の3時に死んだのだけど、死んだ途端タマの体は骸になり、残った肉体は、ついさっきまで生きていたタマとは全く別のものに変わり果てた。やっぱり魂は存在するんだと思う。
それでは、タマの魂はどこにいったんだろう?どこへいったのかは分からないけど、肉体を離れたタマの魂は、真っ直ぐには天に昇らず、きっと伊東にたくさんある隙間のようなところを通って、どっかへ行ったに違いない。
私には、我が家の方を、そして、この世の方を振り向き振り向き、名残惜しそうにゆっくりと「次の世界」へ歩いていくタマの姿が目に浮かぶ。

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