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メルボルンの隙間

Updated: Feb 16

2025/02/09



この間は、伊東の隙間について書いたので、今日はメルボルンの隙間について書こう。



数日前、伊東の隣人のKさんカップルが、飛鳥I I号という客船でメルボルンまでやってきた。伊東の知人にメルボルンで再会するのも面白い。それでシティまで出かけて、桟橋に停泊中の飛鳥I I号をKさんのご好意で見学させていただき、船内のレストランで朝食までご馳走になってしまった。


飛鳥I Iはメルボルンには丸一日停泊していたので、その後市内観光にお二人をご案内し、ビクトリアマーケット、メルボルンセントラルの中心街、州立図書館、フリンダース駅、ヤラ川沿いのプロムナードなどを歩いた。


州立図書館のThe Domeと言われている閲覧室
州立図書館のThe Domeと言われている閲覧室


その途中、Kさんたちと歩きながら、市内のビルの隙間をあちこちのぞいた。特に、ビル壁に描かれたグラフィティアートが面白かった。メルボルンにはグラフィティアートで有名な小路がいくつかあるが、中でもHosier Laneという小路の壁面はびっしりと所狭しと、いろいろな絵や文字が描かれている。ここはグラフィティが合法化されて観光名所になっているのだが、それにしても圧倒的な量だ。



よく映画などにも出てくるが、アメリカの大都市やロンドン、そしてシドニーやメルボルンでも、街のちょっとした隙間はグラフィティだらけだ。Hosier Laneのように合法化されている場所はともかく、高速道路の道路標識、店のシャッター、ビルの壁面、フェンスや工場の壁、駅、バス停など、そこらじゅうにグラフィティが溢れている。この間メルボルンでは、Pamという鳥のグラフィティをあちこちに描いていたアーティスト?が捕まったが、この人物を捕まえるために、メルボルンの官憲はアメリカのF B Iに捜査協力を依頼したと言う。きっとF B Iにはグラフィティ犯を捕らえる専門家がいるのだろう。


Pam the Bird
Pam the Bird

   

グラフィティがアートなのか犯罪なのかは常に議論の焦点だが、やはり自分の家の壁や会社の社屋に描かれたら迷惑としか言いようがない。メルボルンでは、個人も自治体も企業も、グラフィティを掃除するために毎年何億円も使っている。その専門業者もある。実際、市民はグラフィティにはうんざりして困り果てている。いつだったか、私が近所の壁のグラフィティの写真を撮っていたら、通りがかりの男性に「こんなものの写真を写してどうするんだ?これを美しいと思うのか?全く迷惑な話だ」と苦言を言われた。写真を撮ったりして面白がる奴がいるから、こういうものがはびこるんだという口調だった。



でも、どうしてこちらにはグラフィティが多いのか?グラフィティは社会の低層に生きる人たちの、特に若者の不満の表出であり、アイデンティティの誇示であり、政治的なステートメントや政府に対する不信の表明であり、芸術的な表現でもあると言う。それは一種の社会現象であり、文化なのだろう。ある一定量のグラフィティが描かれれば、それを真似する人たちも出てくる。そうしてグラフィティは増幅していく。


一方日本では、東京でもどこでもグラフィティがほとんど目につかない。オーストラリア人も含めて、海外の旅行者が日本を訪れて驚くことの一つだ。どうして日本にはグラフィティがあまりないのだろう?日本にだって社会の低層に生きる人たちはいる。社会や政治に不満を持っている若者もたくさんあるだろう。いろいろな形で自己表現をしたり、アイデンティティを誇示する機会を伺っている者だって少なくないだろう。日本にも少しはグラフィティアーティストもいるらしいが、街中の隙間という隙間にグラフィティが出現するには至ってない。日本の法律や規制が厳しいとか、防犯カメラがそこら中にあるからと言う説もあるが、果たしてそうなのか。


規制ならば、メルボルンの法律もかなり厳しい。罰金はおろか、悪質な場合は懲役刑だ。防犯カメラだってたくさんある。電車やバスに描こうものなら、翌日には消されてしまう。それなのに、メルボルンのグラフィティは、そんな人々の努力を嘲笑うように警備の間隙をかいくぐって描かれ続ける。



この東西の違いは、もっと根源的なところに理由があるのではなかろうか。風土の違いと言ってしまえばそれまでだが、メルボルンの派手なグラフィティを見ながら、私はひっそりとした伊東の隙間や裏道を思い出していた。日本の路地裏の隙間には、メルボルンのそれとはかなり異なった空気が流れている。それは「気」というものかもしれないし、もっと違うものかもしれない。それは言葉で説明できるようなものではなく、感じるものであることは確かだ。日本語には「もの」という語がある。もののけ、ものすごい、もの悲しい、ものの哀れなどに使う「もの」だ。それは、「人智を超えて理解できないもの」という意味らしい。私が、伊東の隙間で感じるような気配、あるいは恐れの感情は、この「もの」に対する感覚と言えば一番ピタリとくるかもしれない。


帰国するたびに感じるが、日本にはそういうものの気配を感じる場所があちこちにある。オーストラリアだって、きっとそういう場所がどこかにはあるんだろうが、今のところ、そういう場所には遭遇したことがない。それはやっぱり風土の違いかもしれない。


とにかく、ものの気配がある場所や、不思議な気が流れているような場所に、グラフィティなんか描くことはできるだろうか。できないような気がする。

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