スタマティスいわく、「タスター、人生は短いんだよ」
- 鉄太 渡辺
- Jun 15, 2016
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2016年6月15日
スタマティスが、またメルボルンへ来た
残り物のカレーの昼飯をパソコンの前で食べていたら、「ポン!」とメールが届いた。パソコンの前で昼飯を食べるなんて最低だが、家にいる僕とても、だらだら仕事の区切りがつかない時など、たまにこういうはめになる。

海は、いつも僕の心にある
メールにはこうあった。「タスター(てつた=僕のこと)、おれだ、スタマティスだ。ルカに会いにメルボルンに来ているからこの番号に電話しろ。パムの家だ。」
スタマティスは、難読症(ディスレキシア)の持ち主で、そのせいか僕の名前の綴りがいくらTetsutaだと伝えても、Tasterと書いてくる。でも、確かにTasterと綴った方が日本語の「てつた」の発音に近いから、こちらに改めようかと思わなくもない。
そのスタマティスのことは前にもちょっと書いたが、もとはダンデノン山の住民で、ヨット乗りで、ものぐさで、女好きのギリシャ人である。ルカは今年20歳になる息子で、パムはルカの母親、別れた奥さんだ。ルカとパムは、メルボルンに住んでいるから、スタマティスは1年か2年に一度、ルカに会いに戻ってくる。今スタマティスは、カナダに住んでいると聞いていたが、本当にそうなのか、本人に確かめないと分からない。(スタマティスは、僕が書いた絵本『ヤギのアシヌーラどこいった』(加藤チャコ画、福音館書店)のモデルで、絵本では「スタマティスじいさん」として登場するが、実物は、まだじいさんではない。60歳くらいだろうか。)

『やぎのアシヌーラ どこいった』渡辺鉄太作、加藤チャコ画、福音館書店
パムとはかなり前に離婚したが、その後、スタマティスはルカの同級生の母親のバツイチ・ママとくっついた。けっこう美人のシングルマザーだったから、スタマティスの手の速さにみなは驚いたものだ。しかし、その彼女とも2、3年で別れてしまった。
その時スタマティスは「俺は、40歳くらいのオーストラリア人の女がつくづく嫌になった。高慢で、主張ばかりする。いったい何様だと思ってんだ」とこう言い捨てて、ブリスベンからヨットに乗って、タイのプーケットまで行ってしまった。そして、今度は、そこで知り合った二十台のタイ人ギャルとくっついてしまった。スタマティスはそのタンという名前の女の子と結婚して、それ以来いっしょにいる。
僕は、若い奥さんをもらってニヤニヤしているスタマティスに、「若い奥さんをもらったりして、うかうかしてられないな、色男!」と言ったが、スタマティスは「見当違いも甚だしい。そういう魂胆じゃないんだ。彼女は、俺の世話をする、俺は彼女の面倒を見る。(She looks after me, and I look after her)男と女は、ギブアンドテイクだ。決して、若い女のケツが良いってことじゃない」と真顔で答えた。嘘ばっかりである。
だから、ここら辺りでスタマティスを知る女性たちは手厳しい。「心底スケベエだねえ、あの男!」とか、「あんなニンニク臭い男のどこがいいんだろう? キスするとき目をつぶれば顔は見ないですむけど、あの臭いじゃ興ざめね」と、評判は芳しくない。
だから、スタマティスは今さらメルボルンに戻ってきても、僕か大工のギャリーくらいしか会う相手がいない。大工のギャリーは、奥さんのヘレンがギリシャ系で、天使のように優しい女性だから、スタマティスも優しく受け入れてくれる。
スタマティスとの再会
僕は、さっそくパムの家のスタマティスに電話した。「よう久し振り。別れた奥さんがよく家に泊めてくれたな? どういうことだ? 説明しろ。」
「パムは、親父を連れてイギリス旅行なんだ。だから、その間俺がルカの世話をしにきた」と、スタマティスは答えた。
「そうか、そいつは渡りに舟で良かったな。暇なら、今そっちへ行ってもいいか?」と僕。
「暇なら持て余している。こんな山奥でやることもないからな。コーヒーくらいは出す」とスタマティス。 進まない仕事は中断して、 僕はさっそくパムの家に行った。
パムの家はダンデノン山の奥深い、ササフラス村の谷底にある。彼女は版画家で、美術家同士うちの女房とも仲が良い。だが、僕は彼女の家に行くのは初めてだった。こちらではバンガローと呼ぶ、山荘風の洒落た家だが、中に入ると、あまりの散らかりように驚いた。
「よう、タスター、久し振りだな。お前さん、ほんの少しだが、年をとったか?」とスタマティスが、散らかり果てた居間の真ん中で言った。
「いきなり嫌なことを言うな。年をとったのはお互い様だろ。若い奥さんを可愛がって無理するなよ。卒中なんかおこしたら大変だ。それにしても、お前を捨てた女房の家は汚いな! 」と、僕は思わず本音を言ってしまった。
「お前もそう思うか! 俺はこんなブタ小屋で暮らすルカが可哀想でならないんだ。あの猫を見てみろ!」と、スタマティスが指差す方を見ると、パムの黒い大きな飼い猫が、ガス台の上の鍋に顔をつっこんで、残りをぺちゃぺちゃなめている。躾もへったくれもない。
「まったくひどい家だ。猫だって、このざまだ。俺が思うに、パムの奴は『キーパー』だ。分かるか?何でもかんでも捨てられなくて取っておく人間だ。だから、こんなに散らかっている。これを見みてみろ!」と、スタマティスはそう言うと、机の上の紙くずを床にどさっと投げ落とした。すると、その下から旧式のラップトップパソコンが現れた。
「これは、俺が20年前に使っていたパソコンだ。それも、同じ机にそのまんま置いてあるんだ。信じられるか!」スタマティスは、両手で頭を抱えてそう言った。
「だけど、物が捨てられないんなら、どうしてお前さんは捨てられたんだ?」と、僕。
「勘違いするな、タスター! 俺はこの足で出て行ったんだ、こんなブタ小屋にはいられないからな」とスタマティス。
カナダのスタマティスとタン
「もう、ここにいない人間の陰口は止めよう。ルカだって聞いているぞ。それはそうと、今お前さんは、カナダに住んでいるんだって?」と僕は、現在のスタマティスに話を移した。
「そうだ、バンクーバーの近くのトフィーノという村にいる。良いところだから、一度遊びに来い。バンクーバーからプロペラ機で45分。車なら四時間ドライブと、二時間フェリーで、合計六時間。うちのまん前は海だ。人っこ一人いない入り江がそこら中にあって、魚釣りはし放題。入り江にはアザラシがたくさん泳いでいるし、時にシャチが回遊してくることもある。クジラもいるぞ」とスタマティス。
「すごいな。でも、どうしてそんなところにいるんだ?」と僕。
「俺はな、二十一歳のとき大学を中退したんだが、在学中カナダの女と結婚して、カナダ国籍を取ったんだ。大学を止めて、その女と別れた後も、そのままカナダに残った。で、鮭漁の漁船に乗って金を稼ごうと思ったんだ。それが一番手っ取り早いからな。それでトフィーノに来た。30年以上前の話だ。あの頃トフィーノは観光地じゃなくて、ただの漁村だった。日系移民の漁師がいて、その人たちの漁船に乗せてもらって鮭をとった。だから、トフィーノのことを覚えていたんだ」と、スタマティス。
「あの日系人の漁師達はもう一人もいない。みんな死んだんだろう。たくさんあった漁師小屋も漁船もない。覚えているが、日系人達は、鮭の身を薄く切って干物を作っていたよ。あれを焼くと旨かったなあ。俺は、その時稼いだ金で自分のヨットを買ったんだ。」と、スタマティスは遠くを見る目つきをした。

小さなヨットで旅をしてみたい
「今はトフィーノで何をしているんだ?」と僕。
「タンが観光客相手の店をやっている。俺はそれを手伝っている。夏の間は良い商売だ。サーフィンとか避暑にくる人間がいっぱいいるからな。タイで仕入れた民芸品とネパールの羊毛のセーターなんかを売っている。」
「タイの民芸品は分かるが、ネパールの羊毛はなぜ?」と僕。
「カナダは寒いだろ?だから、チェンマイから引っ越してきた俺たちは、最初の冬は着るものがなかったんだ。だから、タイに戻ったとき、もうひとっ飛びして、ネパールまで冬服を買いにいったんだ」と、スタマティス。
「ネパールまで?」と僕。
「バンコクからカトマンズまでは安い飛行機があるし、たった二時間だから、買物に行ける。第一、タイにはろくな冬服がないからな」とスタマティス。
「なるほど。それで?」
「カトマンズで冬服をしこたま買いこんだ。手編みのセーターとか、太い毛糸の帽子とか、手袋とか。ほらこれも」と、スタマティスはかぶっていた帽子を脱いだ。なるほど、見たこともない様な立派な毛糸で編んである。
「ナイロンとか、プラスチックとか、ゴアテックスとか、そういうインチキは一切なし。純粋な羊毛だ。カナダの冬にはもってこいだ」とスタマティス。
「じゃあ、少しは儲かっているのか?」
「いや、まだまだだ。どうにか暮らせるくらいだ。だがな、タスター、俺は、また船に乗ることにしたんだ」と、スタマティスは目を輝かせた。
「冬のトフィーノには観光客も来ない。タイ人のタンには、冬のカナダは堪える。だから冬は店を閉めることにした。俺はタイの南かマレーシアにヨットを置いておき、それで東南アジアとか、オーストラリア東海岸をクルーズする。客も乗せれば、少しは金も稼げる。最高だぞ。お前も息子を連れて来い」と、スタマティス。

うちの息子鈴吾郎は、水が好きである
「タスター、 人生は短いんだよ。いいか、俺たちにとって、次の10年はもう二度と来ないんだぞ。分かるか? 次の10年でできることは、多分その次の10年では、もうできない。だからな、俺は、今また船に乗るんだ。くよくよ考えているのは止めだ。今はあちこち船を探している。買う船は、カタマラン(双胴)で、28から32フィートの船に決めている。安定しているし、操作もしやすい。ずっとそういうのが欲しかったんだ」と、スタマティス。
「そいつは大賛成だ。そう言えば、俺も船を作っている。息子の鈴吾郎(りんごろう)にせかされたんで、二人で釣り用モーターボートを作っているんだ。かなり完成に近い」と僕。
「そいつは、いいぞ、タスター! そうこなくっちゃいけない。よし、明日そいつを見せてくれ」とスタマティスは、膝を叩いて喜んだ。

息子と作っているボート。何という名前にしようか?
スタマティスにボートを見てもらう
翌日、スタマティスがうちにきた。
「ほほう、ほほう、ほほう。うん、うん」と何度も頷きながら、スタマティスは、しばらく僕のボートの胴をなぜたり、下からのぞいたりしていた。そして言った。「タスター、いいぞ、このボートは。でも、けっこう大きいな!こいつを仕上げるのは、まだちょっとかかるぞ。」
「うん、長さは15フィート、4.9メートルだ」と僕。
「この大きさだと、かなりの重さになる。モーター、燃料、人は四人くらいか? だとすると、胴体の補強が大切だ。胴体に張るファイバーグラスも底は二重にしろ。一重じゃダメだ。舳先も補強が必要。こんな薄い木材だと、一度、バーンとぶつけたら舳先が割れちまう。錨もしっかりしたのを付けろ。安物はダメだ。錨には五メートルの鎖を付けて、その先は50メートルのロープだ。大袈裟かもしれないが、錨に命を助けられることが必ずあるんだ。 錨はデルタというブランドが最高だ、覚えておけ。」とスタマティスは厳しい顔をした。陸(おか)では、女たらしだの、怠け者だのと言われているが、海に出たらさぞ頼りになるだろう。スタマティスは、その後も、小一時間程僕にボートのレクチャーをした。
ヴァルハラへ行け
船の話ばかりして疲れたので、うちの近所を少し散歩することになった。
「話は変わるけど、僕の39歳だった弟が、一昨年急に病死したことを話したっけ? その後片付けをしたり、東京の実家を処分したりしたことなんかも?」と僕は打ち明けた。
「いや、そいつは聞いてない」とスタマティスは、不意をつかれた様に、静かに答えた。
僕はその顛末を話した。弟は、精神と肉体の変調から、何年も生きるのに苦心していた。大学の研究職にあったが、病を得て退職し、その後はリハビリで豆腐屋に勤めたり、東北震災のボランティアをしたり、世界一周のクルーズに出掛けたり、小説を書いたり、最後は好きだった音楽をやったりもしたが、最後は病に負けてしまった。僕は、遠くからそんな彼を心配しつつも、あまり何もできずにいた。だから、今でもときどき、どうして弟が死んだのか自問したり、若くして亡くなって気の毒に思っているとも話した。
「そいつは、当然だ」と、スタマティスは言った。「しかしな、タスター、こう言うとひどく聞こえるかもしれないが、お前の弟は、 今はきっと生きていたときよりも、ずっと素晴らしい場所にいるんだぞ。」
スタマティスは続けた。「むかし子どもの時、俺はサムライとかギリシャの戦士の話を聞くたびに、死ぬと分かっていながら戦に出かけて行き、喜んで死ぬなんてバカみたいだと思っていた。死んだら終わりだからな。でも、そのうち、どうして戦士やサムライが 喜んで命を投げ打つかが分かった。戦士はただ死ぬんじゃない。死ぬとヴァルハラ(戦死者の館)に行くんだ。戦いで死ぬことは、そこへ行く為の切符をもらうことなんだ。
お前の弟は、いろいろやって、今はヴァルハラにいるんだ。俺たちが、この世で旅をすることも戦に行くことに似ている。旅をしなければ「目的地」に着けないじゃないか。俺はギリシャに生まれて、これまでドイツ、カナダ、オーストラリア、タイに住んだ。今度またカナダに戻ったが、これからまた船に乗るつもりだ。俺は、いつだって旅人だったし、最後まで旅人だ。俺は、ギリシャの島や海は愛しているが、ギリシャ人が嫌いだから、ギリシャには戻らない。だから、最後はどこか旅で死ぬ。そして、最後の最後は、一番素晴らしい、大きな旅をする。この世からあの世へ渡る旅だ。カナダからタイへ行く旅なんか目じゃない。そのために人生はあるのかもしれない。
実は今、アテネにいるお袋も死にかけている。ベッドに括り付けられ、朝昼晩と、姉やその家族に面倒を見てもらっている。俺は、スカイプでときどき話すが、頭もぼけて、俺のことも分からない。見てられないぞ。アテネの病院で死ぬなんて最悪だ。だから早く死んで、あの世に行けば良いと願っている。」
スタマティスは続ける。「それにな、タスター、死ぬのは自然なことだ。誰だって死ぬ。死ぬのが自然なら、怖いことは何もない。怖いのは、死ぬ時の苦しみ(suffering)だけだ」とスタマティスは締めくくった。
確かに、スタマティスの言う通りだ。だが、こいつは、かなりのほら吹きだから、かなり水で薄めて聞く必要がある。本気でそんなことを信じているかどうか分からない。
そんなことを話しながら、家の前に戻って来た。そこでスタマティスと別れる。
「じゃあ、またな。もう一回くらいは会おう」と、スタマティスは言った。僕たちは握手した。スタマティスは、排気管から青い煙を吐く安っぽいレンタカーを運転して戻って行った。そういう車が実によく似合う男だ。
スタマティスの人間としての評価はさておき、ひとつ確かなことは、この男が、心底旅人であることだ。行きたい場所があれば、どんなに遠くても、そこへ行く。そこに飽きると、また別の場所に行く。船に乗って、風まかせ、潮まかせ、 急ぎもしないが、ぐずぐずもしない。漂えど、沈まずに。そんなところが、とても自然だ。きっと、本当にどこかで、のたれ死にするだろう。幸せな顔をして。
僕も、ゆっくりでいいから、どこか遠くへ行きたくなった。
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