サイクリストT村とT太の下北津軽二人旅 太宰治の津軽、縄文の遺跡、あちこちうろうろ
- 鉄太 渡辺
- Nov 5, 2023
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Updated: Jan 23
或る年の春、私は、生まれてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間かかつて一周したのであるが、それは私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件の一つであった。
太宰治 『津軽』から
第一回 青森を訪ねたきっかけと、一日目のこと

(この写真はT村提供)
1. なぜ青森へ行くのか
オーストラリアに住んでいる私が、日本へ帰国する度に自転車で日本各地を旅行するようになったのは2017年以来だ。まずは二回に分けた四国一周。その二回目から、中学の同級生で50年近くの輪友であるT村も参加するようになった(部分的のこともあるが)。四国を制覇した後は、私の目的は、少しずつシャクトリムシのように、南は九州から北は北海道まで日本海側を縦断するというものだった。しかし、それがいつしか、あちこちランダムに出かけるような形になった。それは、ストイックに南北へひたすら一人で走るより、T村とあちこち出かける旅が賑やかで愉快だからだ。私の旅の目的も少し変ったが、それでもいいだろう。こうしているうちに、そのうち日本縦断も達成されるだろうから。
私とT村の前回の自転車旅は奄美大島だった。今年(2023年)1月末のことだ。その前は、昨年6月の山形最上川下り。いずれも4、5泊で300キロ前後のライドである。そして今回は、四泊五日で青森の津軽へ行くことにした。(羽田前泊を入れると五泊である。青森の後、私はそのまま一人で秋田を縦断した。この三泊を追加すると八泊の旅になる。)
たまたま椎名誠著『北への旅』(PHP文芸文庫)を読んでいたら、最初の章が「なぜ津軽へむかったか」だった。やはり関東周辺に住む人間が津軽のような遠くへ行く場合、それが何であれ、理由を述べたくなるらしい。
では、私とT村がなぜ青森へ行くことにしたのか?その理由は全くひょんなことだった。木枯らしの吹く今年二月のある日曜日、オーストラリアへ戻る前に暇を見つけた私は、三鷹駅前の太宰治文学サロンを訪ねた。若い頃から私は太宰ファンだったから、常々このサロンが気になっていたのだ。新しくて立派なマンションの一階にこのサロンはある。昔太宰の家があった場所らしいが、その面影は全くない。サロンには太宰の写真があちこちに貼ってあり、壁は一面書籍である。私は熱い「太宰治コーヒー」を飲みながら、太宰に関する書籍を引っ張り出して読みふけった。至福のひと時だ。見れば、室内には二人のボランティアがいる。手持ち無沙汰に、来訪者の方をチラチラ見ながら何か質問でもしてくれないかと待ち受けている。特に、その片方の中年女性の視線が鋭く私を射る。しばらくして、ついにその視線に耐えきれなくなり、私はとりあえず、場しのぎ的な質問を発したのだった。
「あのぉ、もし津軽に行ったとしたら、やっぱ太宰の実家とかを見学した方がいい訳ですかね?」
その女性は待ってましたとばかり、私の方へすっ飛んできた。「そうです、まず絶対に実家の斜陽館は行かないといけませんよ。マストです!スンバラシイ建物です。それから、疎開の家なんかも、とても素晴らしいのです。太宰がいるみたいですよ。金木、蟹田、弘前、青森には、太宰の足跡がたくさんありますからね。私は、もちろんそう言う場所は、何度も歩きましたとも!(と、遠くを見るような目つきをする。)太宰文学を理解する上では、津軽は必須の旅です。行かないと分からないことがたくさんあるんです。ぜひ行ってみてください!」
この一言は、まるで顔面パンチだった。そうだ、どうして私は今まで津軽に行かなかったんだろう、よし、津軽に行こう!私の羅針盤は、ビシッと津軽を向いた。その後もしばらくこのボランティア女性と談義した。私とて元は文学青年だから、太宰作品については基本的な知識はある。と言うか、平均以上の知識はあると自負している。だから、私はこの女性からすれば、まさに「好敵手現わる」だろう。
最後に彼女はこう言った。
「お客さんは、太宰作品に詳しいみたいだから、津軽に行ってきたら『太宰治検定』を受けるといいですよ。そうすれば、太宰治サロンのボランティアになれるからね。楽しいですよ、高校生とかに太宰の魅力を語る仕事です。毎年4月に検定試験があるから、受けてみたらいいですよ」これで、とどめを打たれたと言って良い。私は、見事に太宰治検定を合格した自分が、女子大生とか女子高生に、太宰文学の魅力を語っている姿を想像して一瞬我を忘れた。

表紙のこの山は、津軽富士こと、岩木山
そして、早速T村にこの件をメールした。
「次の自転車旅行は、青森の津軽はどうだろうね?太宰治の生家のある金木とか五所川原とか、弘前城とかを訪ねるのは?きっと秋の青森はいいぜ。」
だが、とりあえず、太宰治検定のことは伏せておいた。T村にこういうことを話してしまうと、「ねえ、いつ太宰治検定を受けるの?」「もう受けた?」「合格した?」と、うるさいに決まっている。
T村からは、すぐ返事が来た。
「青森、とっても良いアイデア!俺も津軽に行ってみたい。太宰以外にも、青森には亀ヶ岡古墳とか三内丸山古墳とか、縄文のすごい遺跡があるから、それもみたい!義経伝説とかキリスト誕生説とか、青森は面白いんだ。」T村はK大学考古学科卒業だから、古墳とか遺跡とか、そういう古いものが大好きなのだ。
かくして、旅行企画が大好きな営業マンT村は、青森、津軽ツアーを鋭意企画してくれた。
2.青森へ
間は飛ばす。2023年10月末、いよいよ私とT村が青森津軽へ発つ朝が来た。初日の今日の旅程は、飛行機で三沢まで飛び、そこから電車を一部分利用しつつ、一気に走って下北半島の突端のむつ市川内まで攻め込むという急襲作戦なのだった。
二人は早朝の羽田発JAL便に乗った。乗ったのは良かったが、他の飛行機がバードアタック(鳥がぶつかること)にあったとかで滑走路が一時閉鎖になり、我々の便も20分ほど滑走路手前で立ち往生した。
「こりゃあ、やばいぜ、間に合わないな」T村はつぶやいた。
「うん、かなりやばいぜ」と、私も言った。
飛行機が20分遅れるのは日常茶飯事であろう。しかし、本日の場合は、自殺鳥のせいで我々の予定がドミノ倒し的に狂ってしまったのだ。と言うのも、この飛行機が定刻9時15分に青森三沢空港についてくれないと、9時30発三沢駅行きのバスに乗れない。そうすると、9時50分発の青い森鉄道に乗れなくなる。さらに、その先の野辺地駅では2時間に一本しかない大湊線にも乗り換えられなくなり、本日の最終目的地のむつ市の先の川内の温泉宿にたどり着くのが難しくなる。何せ、目的地の温泉宿は三沢空港から105キロも離れているから、途中を電車に頼らないと我々の脚力ではたどり着けない。出張の多い営業マンであるT村は、旅程を組むのはとても上手いのだが、上手すぎて、本日のように綱渡り的なスケジュールになることがままある。仕方がない、田舎の交通機関は便数が少ないのだ。
*ここで断っておくが、私たちの旅行スタイルは「輪行」と行って、自転車で走るのと、自転車を畳んで電車や飛行機に乗る方法を兼ね備えたものである。

輪行は、自転車を畳むのに15分、組み立てるのに10分は必要
案の定、飛行機は20分以上遅れて三沢空港に着いた。関係ないが、三沢空港は自衛隊と米軍の軍用飛行場を兼ねている。だから、我々が到着した時も、頭上を次々と戦闘機が轟音を立てて飛び上がっていた。その音たるやものすごい。ロシアと戦争が始まったかと思うくらいだが、これでもただの練習に過ぎないのだろう。それが証拠に、空港にたくさんいた米兵は、みんなニコニコ、リラックスして缶コーヒーを飲んだりしていた。
とにかく、私たちが乗るはずだったバスはもうどこにも姿がない。
「どうする?」とT村と私は顔を見合わせた。協議した結果、我々に残されたチョイスは三つ:
① 全行程105キロ、歯を食いしばって自転車で走り抜く。
② 空港から35キロ先の野辺地駅まで2時間以内で走り、1時発の大湊線に乗る。
③ 走れるところまで走って、どこかの駅で、次に来る大湊線をキャッチする。この場合、大湊線に乗るタイミングが合わないと宿に着くのが夜遅くになる。

おもちゃのような三沢の街並(この写真はT村提供)
私たちは迷わず二番目のチョイスを選んだ。これが一番合理的だが、問題は、2時間で35キロを走れるかだ。1時の大湊線に間に合わないと大変だ。私たちは、超スピードで自転車を組み立て、三沢空港を後に走り出した。青森の空は青く、紅葉が少し始まりかけた森はとても美しい。しかし、そんな景色を楽しむ余裕はない。12時半には野辺地駅に到着しないと、自転車を畳んだりする時間が足りなくなって1時の列車に乗り遅れる。

青い空の下をひた走るT村
3.野辺地の駅そばが美味しかったこと
私とT村は走りに走った。初日から焦りたくないが、仕方がない。県道8号線は広くて舗装も良かったが、車も多くて意外にアップダウンもあって、なかなか手強い。しかし、初日だけあって私たちの足は元気で力強く、ぐいぐいペダルを踏んだ。頭上を三沢から飛び立った戦闘機がブワンブワン飛んでいくが、それを見上げている余裕もない。三沢の街も、電柱を取り去ってスッキリしてアメリカ風にオシャレだったが、それに感心している暇もない。
グイグイ走ったせいで、野辺地には12時15分についた。小さい田舎駅だ。
「やったー、着いたぞう!」とT村は叫んだ。
「いやあ、やればできるんだ!よく間に合ったなあ」とT太。
昨今、35キロをほとんど休まずに、矢のように走ることなんてあまりなかった。私たちは立派にそれを成し遂げたが、ここで安心してはいけない。自転車を解体して輪行袋に詰めこみ、列車の切符を買ってホームに移動する作業が残っている。改札の横には、スイカもパスモも使えないと張り紙がある。だから自動改札もない。都会人の我々には、券売機で切符を現金で買うなんてもはや過去のことだ。できるだろうか?
しかし、私たちは、冷静沈着に、その複雑な作業をたかだか15分でやってのけた。時計を見れば、1時までまだ30分近くある。口笛を吹きながら、ホームで列車を待てるだろう。

ところが、T村はこう言った。
「駅そばを食べようよ、そうしないと昼飯を食いそびれちゃうよ。」
「でも、時間は大丈夫かな?」と心配性の私は言う。実は、昔松本駅で、駅そばを食べていて列車に乗り遅れそうになったことがある。汁が熱くて、早食いできなかったからだ。私的には、乗り遅れるくらいなら昼飯抜きの方がマシだ。
ところが、T村はがんとして聞かない。「だーいじょうぶ、だいじょうぶ、10分で食べられるから、食べようよ」そうだ、こいつは駅そばが大好きなのだった。どこへ行っても、駅そば屋があれば食べずにはいられない。よし、乗り遅れたらT村のせいだ。私は、腹をくくって駅そばを食べることにした。

(この写真はT村提供)
野辺地の駅そばは、「パクパク」という店名だ。普通は立ち食いそばは、「箱根そば」とか「上州そば」とか地名的な命名だが、パクパクとはケッタイなネーミングだ。大体そばを食べる擬音なら、ズルズルだろう。そんなおかしな名前の駅そばなんて、うまいわけがない。私の期待値はゼロになった。
ところが、とても美味しかったのだ。そして、そばを茹でている、ぷくぷくしたおばちゃんもいい感じだ。そばを茹でる手つきも、ちゃっちゃと手際がいい。駅そばは、「ちゃっちゃ」の音が魅力だ。私は、天ぷらそばだが、プチ贅沢が好きなT村は、「とろろ天ぷらそば」を頼んだ。ところが、そばにとろろがのっていない。
「ねえ、おばちゃん、とろろがのってないよ」とT村はクレームをつけた。
「あはは、とろろは、蕎麦に練りこんであるんだよ、だから見えないの」と、おばちゃんは言う。
「へぇー、そんなのは初めてだよ」とT村は驚いた。所変われば品変わるものだ。
とにかく、このそばは美味かった。どんな風に?と聞かれてもうまく答えられない。東京などのそばとは全く違う味わいだ。決して雰囲気だけじゃない、そばも、つゆも、のっている天ぷらも、きのこも、全てのグレードが高い気がする。気になる人は、青い森鉄道の野辺地駅へ行くこと。
4.大湊のタクシー運転手の会話が皆目分からなかったこと
かくして私とT村は、無事に野辺地駅1時発の大湊線に乗ることができた。これで2時半には終点大湊駅に到着し、そこから走り出せば、残りたった20キロの走行で宿にたどり着けるてはずだ。どんなに遅くとも、5時には宿に着いて、笑って温泉に入れるだろう。

大湊線は、2両編成の田舎列車だ。しかし、田舎列車をバカにしていると痛い目にあう。何故なら、走っている頻度が少ない上に、高校生などが通学に使っているから、混むときは意外に混むのだ。私たちが乗った時間帯は昼すぎで、激混みではないが、そこそこ人が乗っている。観光客も多く、外人さんも若干いる。
大湊線の窓の外には陸奥湾が広がり、対岸の津軽の山並みが霞んで見える。海岸線のところどころには、大きな発電用風力タービンが巨人のように立ってる。ところが私は、35キロを全力で走り、そのあと暖かい駅そばを食べたので眠くなってうつらうつらしていた。T村と言えば、いつものように興奮し、携帯電話を振り回しながら、そわそわ列車の前に行ったり、後に行ったり、まるで修学旅行の小学生のようにはしゃいでいる。

大湊線の中をうろうろ徘徊するT村
「おお、すごいぞ、やっぱ、こういう単線はいいねえ、特に車両の前に立つと、景色がぐんぐん吸い込まれていくようで、すごいんだぜ、お前も行ってみろ」と、T村はうるさくて仕方がない。私は、適当に「うん、うん、そうか、そうか、なるほどすごい景色だねえ、いやあ絶景、絶景」などと相槌は打つが、実は眠たくて仕方がなかったのだ。

やがて列車は終点の大湊についた。7、80キロを1時間ちょっとで走ってしまうのだから鉄道はえらい。我々のような還暦サイクリストは、列車を利用しない手はない。もはや脚力に物を言わせて走る年齢ではないのだ。

大湊駅前で自転車を組み立てる。横に、客待ちのタクシーが二台止まっている。タクシーの運転手さんたちは、青森弁で雑談をしている。
「きなーけやぐと、ゆさいってきたじゃ。」
「すったゆさいってればあだるや、ガハハハ」
といったような感じだ。駅そば屋のおばちゃんも多少訛っていたが、この運ちゃんたちは、完全にネイティブ化して話しているので何を言っているのか全く分からない。青森にかなりのパワーを感じた瞬間だ。

5.謎のビデオ屋を発見して、電磁波攻撃受けた後、川内の宿に到着
眠気覚ましにローソンのコーヒーを飲んでから走り始める。ローソンのコーヒーを飲んだとたん、サイクリング旅行に来たという感慨で胸がふくらんだ(四国の旅行記、奄美大島の旅行記などを参照のこと)。
大湊から目的地の川内までは20キロ、1時間半の走行だから余裕のヨッチャンだ。道路もほぼ真っ平ら、シャカシャカ自転車をこぐ。行けば、道端の人気のない林中に、妙な小屋がある。トタン張りの小屋で、窓もドアもなく、中に人がいるのかどうかも分からない。看板からするとエロビデオ屋だ。アマゾンとかネットフリックスが普通の時代にまだビデオ屋があるのだから、青森はすごい。でもまあ、駅に自動改札がないんだから、ビデオ屋があっても不思議はないかも。きっとビニ本なんかも売っているんだろう。

謎のビデオ屋が現る(この写真はT村提供)
そんなことを考えながらしばらく走る。しばらくして、どうせなら中を覗けば良かったと後悔した。もしかしたら、愛染恭子とか谷ナオミとかのレアなお宝映像が秘蔵されているかもしれない。でも、もう大分走っちゃったから、戻るのも億劫だ。後悔先に立たず。
陸奥湾の一番の奥は狭くなっていて、ここだけ大湊湾と呼ばれている。ここに芦崎と言う細長い半島があるが、海上自衛隊の基地になっていて一般は入れない。非常に物騒な感じの戦艦が二隻係留されていた。またしばらく行くと、今度は右側に大きな航空自衛隊の基地があり、背後にそびえる釜臥山の頂上には巨大な白い立方体が立っている。大変目障りだ。「あれはなんじゃ?」と、T村がグーグルで調べると、ガメラレーダーというレーダーいうことだ。ガメラとはいよいよ怪しい。

(この写真はT村提供)

(この写真はT村提供)

(この写真はT村提供)
そのすぐ先では、今度は道端ででっかい赤いレーダーがぐるぐる回っている。その敷地前に古びた巨大なヘリコプターが展示してある。ここで立ち止まり、私は、愛用のカメラでヘリコプターを撮影しようとしたが、カメラの設定がめちゃめちゃに狂っている。スイッチを切って再起動してもダメだ。どうしたことだろう。そこで思いついたのは、もしかしたら電磁波のせいかもしれないということだ。これだけ軍事施設があり、すぐそこに強力なレーダーがあるなら、目には見えなくとも電子的にはいろいろな干渉があるのだろう。私たちの体だって透けて見えているのかもしれない。(後で、宿についてからカメラを出して、同じような操作をしたらすぐ元に戻った。やはり電磁波の影響だと私は疑っている。)
カメラの調子がおかしくなったのと前後して、私の鼻水も止まらなくなった。体の調子はおかしくないので、これは花粉か何かのせいだろう。(いや、それとも電磁波?)自転車で走っていて鼻水が出るのはとても困る。片手では鼻をかめない。私は走っては止まり、走っては止まって鼻をかむが、そのうちティシューも無くなってしまった。こうなると、鼻が垂れるにまかせて走るしかない。やれやれ、今日は一難去ってまた一難だ。

もうこれ以上鼻水が止まらないと脱水症状を起こしかねないと思って我慢して走っていたら、すぐに宿のある川内の集落についた。我々の泊まる宿は、大きなログキャビンのような建物で、宿と公共の温泉を兼ねている。かなり期待がもてる感じだ。
旅装を解いて中に入ると、鼻水はピタッと止まった。時計を見れば5時過ぎで、まだ明るいうちに到着できた。飛行機が遅れ、バスに乗り遅れたが、大湊線にどうにか間に合ったのが僥倖だった。駅そばパクパクは美味しかったし、陸奥湾の景色はとてもきれいだった。ビデオ屋もあったし、電磁波攻撃にもあい、実にイベントフルな一日だった。
熱い温泉に入ると、緊張が解けて体がふにゃふにゃになった。夕食は、刺身5種、ホタテ焼き二つ、大きな海老フライ二匹、ツブ貝とオカラの和物、ジンギスカン鍋、漬物にご飯。デザートにケイラン。ケイランとは、大福のようなあんころ餅が、温かいだし汁に入ったもの。こんなの初めて食べた。
いよいよ明日は、フェリーに乗って平舘海峡を渡り、蟹田から金木へと、津軽のコアな世界を走るのだ。私は、蟹田の海岸で、黒いマントの太宰治が彷徨している姿をイメージしながら、眠りについたのだった。

(青森旅行の第一回終わり。二回目に続く)
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