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カウラまで (2回目):

ワンガラッタからカウラまで、ひとっ走り

 

ワンガラッタからカウラまで400キロ、およそ4時間半のドライブ。オーストラリアは平らな大陸ですが、自動車で地表に張りついて走っていくと、平らな大地にも起伏があることが分かります。時速100キロで走っていくわけですが、僕の古いスバルにも速度コントロールが付いているので、アクセルから足を離しても車は同じ速度で勝手に走ってくれます。そうすると、大地の起伏もまるで海のうねりを船で乗り越えていくような気分。



 ワンガラッタを朝7時に出発、ハンドルを軽く握って車を飛ばしていたら、昼過ぎにはカウラへ着いてしまいました。メルボルンとシドニー間のヒューム・ハイウェーは道が良いので、400キロのドライブも楽ちんです。早速日本庭園へ向かいます。曇りなのに結構暖かく、まずは外のテラスでコーヒーを飲みながら、素晴らしく手入れの行き届いた庭園を眺めました。明日の紅葉祭に備えて、庭園のスタッフや庭師がテントの設営などに走り回っています。コーヒーを飲むと支配人のシェーンさんが庭を一周案内してくれました。12エーカーもある日本庭園に来たのは多分初めてです。日本から移植された椿、カエデ、ツツジなどの樹木、咲き誇った菊の群生があります。それらを見下ろすように、オーストラリア原生のユーカリの樹木もあちこちに。日本庭園なのにオーストアリアらしさが溢れており、見事な調和があります。シドニーやメルボルンのような大都会にあればきっと人で溢れているでしょう。それくらい立派な庭園ですが、今日は人出もまばらで、もったいないくらい。

 




日本兵の墓と第二次大戦戦争捕虜収容所跡

 

翌朝起きると雨が降っていました。スーパーで折り畳み傘を買い、まずは町外れにある日本兵の墓と第二次大戦戦争捕虜収容所跡へ。中野不二夫『カウラの突撃ラッパ:零戦パイロットはなぜ死んだか』に詳しくありますが、第二次大戦中カウラに作られた捕虜収容所には、ニューギニアやタイ、オーストラリア北部などで捕虜になった日本兵が多い時で千人以上いました。この捕虜の多くが1944年8月5日に集団脱走を企て、230余が射殺される、もしくは自害するといういわゆる「カウラ事件」という悲劇が起こった場所です。

 美しい日本庭園のちょっと先の町外れに収容所の跡地があり、きれいに保存されています。鉄骨でできた監視塔だけが再現されていますが、他の建物は全て取り壊され、今はコンクリートの土台と僅かな瓦礫だけが、緑の牧場のあちこちに展示保存されています。

 私は、小雨が降る中、その跡地に立ちました。何も知らなければ何もない牧場が地平線まで続く長閑な風景なのですが、捕虜収容所跡地と分かって見るとまるで違って、限りなく寂しい場所として目に映ります。




私は買ったばかりの青い傘をさしてゆっくり収容所跡地を一周しました。そうしながらこの場所に収容され、最後に命を失ったたくさんの日本兵の姿を想像しようと試みました。戦争中のこととは言え、また、たった一晩の出来事とは言え、こんな静かな辺鄙な場所で何百人もの人命が失われる出来事が起きたとは信じられません。私には、その様子を想像することはとても無理でしたが、説明板に刻まれていた「夏草や兵どもの夢の後」という芭蕉の句と、この場所の静かさと寂しさが、逆に歴史の無情さと亡くなった人たちの無念さを物語っている気がしました。



 町へ戻る途中、第二次大戦で亡くなった日本兵の墓地に寄りました。町の墓地の一隅が戦没者墓地になっていて、その一角が第二次大戦中にオーストラリアとその周辺で亡くなった日本兵の墓地になっています。日本兵の墓地には立派な慰霊塔があり、その背後にはシンプルな墓標が並んでいて、そこには日本人戦没者の名前が書かれています。カウラだけではなく、その他の場所で亡くなった方たちの名前も刻まれていました。その名前を確かめながら墓地を歩くと、不思議な感覚に囚われました。戦争に関わる歴史書や、あるいは戦争の報道では、死傷者を「230名が死亡」というようにまとめて報道され、そのために現実感が乏しくなってしまいます。でも、こうやって墓標の名前を読みながら歩くと、亡くなった人には一人一人ちゃんと名前があるという事実に改めて気付かされるのです。それは当たり前で、明白な事実ですが、とかく見過ごされてしまうことなのではないでしょうか。歴史というものは、俯瞰的に、全体的な流れで捉えることが多いのかもしれませんが、こうやって一人ひとりの人間の存在が、歴史を形作っていることも事実でしょう。

 

そういったことに気がつくのも、こうした場所を訪れることの意義かもしれません。

 


カウラ日本庭園の紅葉祭りで紙芝居を披露

 

さて、10時ごろから日本庭園では紅葉祭りがスタートしました。来訪者がたくさん入園してきます。私は、紙芝居が担当なので、紙芝居のテントに舞台を設置しました。カウラのライオンズクラブのメンバーであるグレアムさんという年配の男性ボランティアが手伝いをして下さいました。紙芝居テントには、シドニー日本国際交流基金の図書館から借り出された日本に関する図書、日本の小説の英語訳作品、紙芝居なども展示されています。

 少々雨が降っていますが、地元カウラの小学校の生徒たち二百名余りが賑やかにやってきました。いっぺんにはテントに入りきれないので五十名ほどに分かれて紙芝居を見てもらいました。

 今回は日本語の紙芝居を英語に直して上演しました。オーストラリアの子供たちの多くは紙芝居を見るのはこれが初めて。でも、舞台の扉を開いて語り始めると、子供たちはグッと集中して聞いてくれます。私が質問したり、話しかけたりすると、オーストラリアの子供たちはとてもよく反応してくれます。

 今日の1番のヒットは『ごきげんのわるいコックさん』でした、ふくれっつらのコックさんや横長のコックさんの顔を見て、みんなゲラゲラ笑います。子供たちが笑ってくれると、やっている方もとても嬉しくなります。紙芝居の素晴らしさは、演じ手と観客の間にこうした共感が生まれるところかもしれません。

 それにしても、10時から2時の間に三回ステージをこなして、大分くたびれて、やれやれです。でも、終わってほっとしました。



 オーストラリアで紙芝居をやっていていつも不思議に思うのですが、テレビやコンピュータが生まれた時からあるこの子供たちでも、どういう訳か紙芝居をちゃんと見て楽しんでくれます。でも、紙芝居はとてもシンプルだから、その単純さが、かえって新鮮なのかもしれません。とにかく、カウラの子供たちの反応がとても良かったので、700キロも車を飛ばしてやってきた甲斐があったというものです。

 

旧友との再会

 

最後になりましたが、このカウラ訪問、実はとても楽しみなことがありました。それは旧友との再会でした。旧友とは、2020年暮れからオーストラリアに赴任した、在キャンベラ日本大使の山上信吾氏です。山上大使と私は、実は故郷東京都の多摩の同じ町内出身、幼稚園も小学校も一緒の竹馬の友なのです。子供時代は隠れん坊をしたり、自転車に乗ったり、野球をしたりの近所のガキンチョ同士。それが今や日本大使とは驚きです。でも、大使だろうが何だろうが、私には「信ちゃん」なのであります。


紅葉祭りの主賓である山上大使は、カウラのお歴々が集まる中、日本国旗をグリルに立てた大使館の自動車レクサスに乗って颯爽と登場し、「山上大使」とか「アンバサダー」とか「エクセレンシー」とか最高位の敬称で話しかけられていました。

 

そんな中、私は頃合いを見計って、「よう、信ちゃん、元気?」と話しかける気安さです。そしたら大使も、「おおお、鉄っちゃん、変わらないなあ!」と笑顔で答えてくれました。いやあ、嬉しかったなあ、幼な馴染みというのは良いものですね。


 

(山上大使ご夫妻と私(真ん中))


信ちゃんと会うのは10数年ぶり。でもカウラではゆっくり話す時間がなかったので、カウラの帰りにちょっと寄り道をして、キャンベラの大使公邸に寄せていただきました。食事をしながら、奥様も交え昔話で大笑い。何を話したかは国家機密なのでここには書きません!! 

 

というのが、私のカウラ、キャンベラめぐりの巻でした。

 
 
 

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