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なるべく距離を開けてください

2021年3月28日

 

土曜日、久しぶりに電車でメルボルンのシティに出ることにしました。1時間だけの旅ですが、電車には滅多に乗らないので楽しみでした。ビクトリアマーケットに古本市が出るというので、冷やかしに行くことにしました。

 

久しぶりに外出して気晴らししようと思ったのは、自分を慰めるためと言ってもいいかもしれません。実は今週、ちょっとした出来事が二つあったからです。

 

一つは数日前、歯医者で奥歯を抜いてインプラントを入れたことです。「30分くらいで終わりますよ」と歯医者は言ったのですが、倍の1時間くらいかかりました。最初に問題の奥歯を抜きましたが、ドリルが「キーン!」と脳髄を貫くようなすごい金属音で、思わず「ぎゃー!」と絶叫しそうになりました。その次に抜いた後の骨を削るドリルもすごくて、「ガリゴリ、ゴリゴリ!」と振動が激しく、あたかも削岩機を口に入れられたように頭蓋骨全体と脳味噌がブルブル震えました。痴呆症になったらどうしようと心配になったくらいです。おまけに、ちょっとした海外旅行ができるくらいの高額な請求書も加わり、終わった後は魂が抜けたような放心状態でした。

 

もう一つの出来事は年金(オーストラリアのスーパーアニュエーションと呼ばれる雇用年金)についての相談でした。これまでそのアドバイスを頼んでいたファインシャルプラナーの会社が別の会社に買収されて担当者が変わったので、新たに面談をしました。新しい担当者に僕の仕事や納税のこと等、プライベートなことを説明するのは思いの他疲れました。大した額ではないんですが、お金のことを他人に話すのはあまり楽しくありません。

 

インプラントを入れた後はまだじくじく痛むし、年金の相談なんてあまり楽しくないし、どっと疲れてしまったので、古本市にでも行って、楽しもうと思ったわけです。




 

そこで颯爽と出かけたのですが、家を出るときは秋雨がしょぼしょぼ降っていました。読みかけの村上春樹の短編集『回転木馬のデッド・ヒート』をバックパックに入れ、駅へ。始発だし、土曜だし、車両には誰もいません。しめしめと腰掛けて、ブックマークを入れてあったところを開くと、それは「雨やどり」という題の短編でした。外は雨降り。小さな偶然ですが、楽しい気分になりました。


ビクトリアマーケット





シティまでの1時間はすぐでした。村上春樹も読み終わりました。本をたくさん買おうと、駅前の銀行でやや多めにお金をおろし、マーケットまで10分ほど歩きます。雨も上がっています。

 

土曜日の午前なのでマーケットはなかなかの人混みです。いつまで続くか分かりませんが、今のところメルボルンはコロナの感染者がゼロなので、規制も緩み、普段と変わらない光景があります。マーケットはいつ来ても楽しい場所です。さて古本市はどこでしょう?探したらマーケットの隅に10軒くらいが折り畳みテーブルの店を出していました。大した規模でもないので、ちょっと拍子抜けしました。

 

気を取り直して、一軒一軒、一冊一冊、じっくり見て歩きました。よく知らない作者についてはGoogleで調べたりしながらです。便利になりましたね。でも結果から言うと、ちょっとガッカリでした。品揃えが良くないのです。古い料理の本、化石のように古いペーパーバック、冴えない感じのロマンス小説、スーパーマーケットで売っているような、手に取る価値のない絵本などが多く、「!!」というサプライズがほとんどありませんでした。ビクトリア・マーケットは、市内の観光地だから、古本市もこんな程度なのかもしれません。あるいは僕の期待感が高すぎたのかも。

 

それでも一冊だけ、ジョージ・オーウェルのComing Up for Air(邦題『空気を求めて』)という小説を買いました。『1984』や『動物農場』は読んだことがありますが、この本は読んだことがありませんでした。

 

買ったのはそれ一冊だけ。せっかくマーケットへ来たのだから、野菜売り場でブロッコリ、イチゴ、それから栗を買いました。秋だから、栗を買えたのはうれしかったです。





大きなニンジンを買った人もいる お昼を食べてから帰宅の電車に乗りました。オーウェルのComing Up for Air がどんな話かというと、裏表紙の解説には、「中年の家族持ちの男は保険会社の外交員である。第二次大戦が忍び寄るロンドンの生活に疲れ、故郷の田舎に引っ越すが、そこにも安住の地は見出せなかった。そこで発見したことは… 『1984』や『動物農場』を彷彿させるオーウェル初期作品」とあります。

 

なかなか面白そう。最初のページを開くと、書き出しの文は、”The idea really came to me the       day I got my new false teeth. 「実際その考えは、新しい入れ歯ができた日に思いついたのだった」でした。

 

「あれ、また偶然だな」と、奥歯にインプラントを入れたばかりの僕は思いました。今朝の「雨やどり」も偶然、オーウェルのこの一節も小さな偶然の重なりです。ちょっと不安なような、嬉しいような気持ちで電車の窓の外を眺めました。

 

その窓には、“Keep your distance where you can” 「なるべく距離を開けてください」とソーシャルディスタンシングの標語が書いてあります。噛み締めると、曖昧かつ意味深な文です。これも何かの啓示か? だとしたら、僕は何から距離を開けなければいけないのか? どうして距離を開けなくてはいけないのか?




 

小さな声で、 “Keep your distance where you can”と唱えてみました。そしてふと、この文の逆は何だろうと考えました。Get close anywhere you like「どこでも、好きなだけ接近してください」かな?

窓の向こうには綺麗な青空が広がっています。 まるで空に「一体、何でそんなつまらないことを考えてるんだ!」と言われたような気がしました。

 

もうすぐ終点です。着いたら、濃いコーヒーでも飲もうと考えました。

 
 
 

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